もうすぐ伊勢神宮の式年遷宮の年がきますね、平成25年(2013年)です。
もうすぐといっても3年後で、まだまだ先のようですが、これがそうでもないんです。
普通の住宅建築でも計画、土地購入、企画、設計、工事と続きますので、すんなりいって1年、何か問題があったり悩んでいるうちに1年半から2年ですから。

伊勢神宮の式年遷宮なんかの場合は、平成17年(2005年)から準備が始まっています。
この式年遷宮によって、古い建物がまったく同じに新しく建てられる。
そのことによって伝統的意匠を伝えていく。
素材と各部の加工技術、各部の装飾技術、それをおこなう幾多の職人、式典を執り行う神職。
ひとつの建築物の伝承によってより多くの広範囲の文化が永続していく仕組みです。

石造りの建物を数百年持たせようとする西洋の教会建築もすごいですが、建設に200年くらいかけて、その後、200年以上を維持しようというやり方は、新しい教会建築を旧態のままに建設しなければならないため、いつのまにかゴシック大教会が建たなくなった現代、かっての石職人や石工のギルドなどが現代では機能しなくなってきています。

自然に朽ちる木造建築の伝統をもつわが国のこの「カタ」を残すというやり方はすごいものです。

この物理的に残りやすい石造建築部分と意匠的に残しやすい木造建築部分を合わせもつのが、日本の城郭建築なのではないでしょうか。

そういった意味では、先般から絶滅危惧している素材や技術、町おこしにおける地域資産の形成そのふたつを、いっぺんに解決する方法のひとつが、城郭再建築、天守閣の復元なのではないか、と考えています。

現在、日本には12の昔からの天守閣があります。
戦前にはさらに8つの城(水戸城、大垣城、名古屋城、和歌山城、岡山城、福山城、広島城、首里城)があったのですが、戦災で焼失しています。

現在も残る12の天守とは
弘前城、松本城、丸岡城、犬山城、彦根城、姫路城、松江城、備中松山城、丸亀城、松山城、宇和島城、高知城
です。
エヴァ12使徒を覚えるくらいなら、まずこの12天守を覚えてください。

建築エコノミスト 森山のブログ

私は、このうち弘前城と丸岡城以外は見に行ったことがありますが、山城、平城、そのいずれにおいても、遠目に見たときの漆喰や黒板張りに屋根の華麗さ、堀や基壇の石垣の見事さもさることながら、その内部の木造部の豪壮さには圧倒されます。

外から見える華麗さに比較して結構内部が荒っぽい、男の仕事っぽいんですよ。
「本当に作ってるんだ!」と、現代の大型建築では感じないモノづくりの迫力ですね。

明治維新時には、このような城郭が170も残っていたそうです。
明治政府が旧藩地の没収と同時に破却させたのは、当時の政治状況とはいえ日本の建築文化における大きな損失でしょう。

実は、城下町といわれる都市構造において、街中から天守が見えるか見えないかは大きな違いをもっています。

お城を中心にして街路が形成され、大工町、寺町、細工町などといった職能ごとの区分けになっていたり、道路の交差部や曲がり角、高台などから城が見通せるような景観的配慮がしてある、掘割などもそうですね。

そのため、戦後のコンクリート建築による外観復元であっても、各城下町におけるその波及的効果は馬鹿にならないと思います。
城下町における天守復元による地域経済への波及的効果といった論文でも書いてみようかとさえ思います。

事実、私は福山と岡山の両城とも幼少の折から見ていますが、それがたとえコンクリート造であろうが、すばらしいな、すごいな、とはるか戦国の時代に思いをはせ、新幹線で通り過ぎる度になんとなく郷土に居城が残っているのを誇らしげに感じたりしております。


先日も静岡に行ったおりに駿府城をたずねたときに、近くに高校があり堀の周囲を部活のランニングに使っているのを見て、あっ、きっとここの高校生も城が間近にあることを将来誇りに思うだろうな、と感じました。

つい最近、熊本城における復元工事があったと思うのですが、昔ながらの伝統工法で実行することで、多くの建築素材や技術、そして職人の技の継承ができたのではないでしょうか、そういった意味では現場の緊張感と使命感はただならぬものであったでしょう。

この城郭建築についてですが、大学の建築学科では一切教えていないんです。
日本の大学なのに、お城のことを教えていない。

民家と茶室については堂々と微に入り細に入り語りたがる建築家は多いのですが、
お城が好きとか、城郭、武家屋敷について言及する建築家はほぼいません。

なぜなのか、またもや、わかりませんが
私は城が好きなので、この城郭について思うところを書いときたいと思います。