今日は終戦記念日です。謹んで先人のご冥福をお祈りいたします。
昨日、TVで何回目かの「火垂るの墓」を放映したみたいですが、
いままでも何年かに数回、油断していて何度か見てしまっていますけれど、
また空襲の場面が、節っちゃんが、と思うと、もうそれだけで、もうダメです、見れません。

都市爆撃数十箇所によって燃え尽きた日本の、その戦後の焼け跡から復興に導いた日本の建設業、特にゼネコンの真の姿を伝えようというお話ですが、今日は万博のときにちらっとお話した竹中工務店の歴史についてご紹介したいと思います。

日本の戦国時代と呼ばれる時期は、応仁の乱(1467年)から豊臣秀吉による天下統一(天正14年、1586年)までの約120年間をいいます。
120年間といえば、大体3~4代が経過するくらいの時間の長さですね。
つまり、おじいちゃんの時代は凄かったけど、とか出自がわからないくらいの人が大名になったりとかいった、さまざまなつわものどもがその実力で覇を競った栄枯盛衰の時期ですね。

このころ織田信長に普請奉行として禄800石で仕えていた竹中藤兵衛正高が竹中工務店の創始者です。
かの大軍師竹中半兵衛の身内であり、本能寺から脱出した家臣のひとりと聞いたことがあります。

当時の信長は1560年の桶狭間で今川義元を奇襲により破って以来、1565年三好三兄弟と松永久秀により将軍義輝暗殺、1568年義昭を擁立して入洛、1571年比叡山焼き討ち、1573年浅井朝倉連合軍を撃破、1576年安土城を築城、1582年本能寺の変

本能寺の変で主家である織田信長が明智光秀に討たれ、その後の山崎の合戦、その戦功論賞のための清洲会議を通じて羽柴秀吉が政治の実権を握ります。
これに随身するを潔しとしない、旧信長直属の家臣たち、浪人となっても主家再興のために尽くした旧家臣群の中にこの竹中藤兵衛正高もいたのです。

その後、小牧長久手の戦い、小田原城包囲戦、関が原と豊臣秀吉から徳川家康に政治の実権が移るにつれ
旧織田家臣の栄華も完全に過去のものと成り果てました。

そこで、竹中藤兵衛正高も一大決心をし、武家を捨て工匠の道を選んだのです。
清洲城から名古屋へ移住し、工匠藤兵衛として生きていくために「大隈流」という流派を興します。
工匠に限らず、当時の日本においては何事につけ一流一派を築かなければ、組織としてひとり立ちすることはできなかったからです。
特に寺社仏閣においては、絵様(えよう)といわれる梁飾りの彫り物の自派の意匠を確立しなくてはなりませんでした。今でもこの梁や肘木の彫り物で製作年代や番匠の流派を判別できるのです。
無事、藤兵衛が始祖の「大隈流」は門外不出の一子相伝の流派として、朝廷、寺社から認められることになり
武家から工匠に転進、大隈流大工棟梁藤兵衛が慶長10年1610年創業されることになりました。
明治時代までは竹中家はこの流派から屋号「大隈屋」と呼ばれていたそうです。

歌舞伎役者ではないですが、今度竹中工務店の現場を見かけたら、「よっ、大隈屋!」と声を掛けてみるのも一興ではないでしょうか

建築エコノミスト 森山のブログ

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              志摩国分寺本堂 天保12年(1841年)

しかし、藤兵衛正高のここまでの30年間は苦労の連続であったと思われます。
なぜなら、信長の幕下にあった普請奉行とはいえ、その職務は今でいえば国土交通省の一官僚のようなものです。当時の藤兵衛の同僚の中にはうまく権勢を泳いで徳川幕府の中で普請奉行を務めているものもいたでしょう。
それが、国交省で建設土木行政をやっていた人が、部下もろとも市井の大工になって中小工務店として建設業許可をとって建設会社としてやっていこうというわけですから

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   大工さんは仕事の後や休日は棟梁の下でこのような絵様を習っていました。

竹中工務店はその代表者がすべて直系であり、現在までその武士道精神および棟梁魂(トウリョウスピリッツ)
を受け継いでいるという会社です。

初代 藤兵衛  寛永18年歿   
二代 藤八郎  延宝1年歿     
三代 藤九郎  宝永7年歿
四代 藤兵衛 享保10年歿    
五代 藤兵衛 明和7年歿      
六代 藤八郎 天明5年歿
七代 藤兵衛 寛政6年歿     
八代 藤兵衛 享和2年歿      
九代 藤右衛門 弘化3年歿
十代 藤右衛門 嘉永5年歿   
十一代 藤右衛門 明治41年歿   
十二代 藤五郎 明治32年歿
十三代 藤五郎 昭和41年歿  
十四代 藤右衛門 昭和40年歿   
十五代 錬一 平成8年歿
十六代 宏平 昭和52年歿    
十七代 統一 

そうした初代から連綿と続く企業文化をきちんと受け継いでいけたのはなぜなのでしょうか
やはり長期的なビジョンで臨機応変に対応しつつ、その創業精神を維持し事業を継承し続けるということでしょう。

その後、現在の大手ゼネコン竹中工務店へと飛躍する機会が明治維新後の国家体制づくりでした。

十一代 藤右衛門さんの時代に明治維新が起こり、
第十三代藤右衛門さん、第十四代藤五郎さんの時代で、
一大転換をおこなって今の竹中工務店の祖が築かれます。

「工務店」という言葉自体が、この竹中藤右衛門さんの創作です。