白隠の公案禅の階梯:公案(臨済宗) | 仏教の瞑想法と修行体系

白隠の公案禅の階梯:公案(臨済宗)

「白隠の公案禅の階梯:階梯(日本臨済宗)」 から続きます。

先に紹介した白隠の公案禅の修行階梯の中から、「法身」、「機関」、「言栓」、「難透」、「向上」、「後の牢関」で出される公案の例と、その意味、その解答例を解説します。

基本的な階梯の意味や公案の例については秋月龍珉「公案」を参考にしています。
公案は、主に江戸時代に編集された公案集の「宗門葛藤集」を参考に、公案によっては簡略化して紹介します。

解答については基本的に秘密事項なのですが、一部、漏れてしまっているようなので、これを少し紹介します。
これは虎の巻として公開されてしまった「現代相似禅評論」(の英訳の和訳)を参考にします。


<法身>

「法身」の公案として最も代表的なのは「趙州無字」(無門関・第1則、宗門葛藤集・第46則)です。

「趙州和尚に、ある時、僧が問うた、「犬に、いったい仏性というものがありますか」。趙州は答えて云う、「無」。…」

教義的な説明をすれば、この「無」という答えは、有に対する無、つまり「ない」という意味ではなくて、有無を越えた「空」としての「無」です。

仏教の教理では「仏性がある」こと、しかし、趙州が「煩悩で汚れているから仏性はない」と言ったこと、そして、現在の自分に現実に「仏性」が現れていないが、それを探してみる…というように瞑想が進みます。
やがて、「無」という言葉への集中から、最終的に概念を越えた「無」と一体化し、その先に「仏性」を見つけます。

しかし、見解を示す際には、教義的説明は答えになりません。
具体的な瞑想法と問答については、姉妹サイトの記事「無字の公案の瞑想法」を参照してください。
大きな声で「無ー」と発声し、有無を越え、概念を越えた「無」を示す、というのが代表的な解答例です。


「趙州無字」と並んで有名な「法身」の公案が、白隠禅師の「隻手音声」です。

「白隠禅師が言った、「両手を打つと音がする、片手ではどんな音がするか」」

音や打つことにこだわらず、片手を指し出して、あるがままの存在を示す、というのが代表的な解答例です。
「拶処」として、様々な追加の質問が突き付けられます。

「片手の音を聴いたのなら、その証拠を見せよ」
「片手の音を聞いたら仏になるというが、それならお前はどう成仏するか?」
「剣で片手が切り落とされたとしたらどうする?」
「富士山のてっぺんにある片手、それはいったいどのようなものだ?」
などなど

質問に関しては、「片手」、「片手の音」を「法身」つまり、あるがままの自然存在であるとして、あるいは何でもよいのでその何かを示して、返答します。


「法身」の公案の答えは、結局、無である自分の心、あるいは、実相としての世界を示すことです。
その質問によって、「無ー!」と言ったり、「叉手当胸」の姿勢を示したり、「片手」のような公安に出てきたものをそのまま示したり、それになりきったり、自分の名前や形容を行なったり…、といろいろな表現が可能です。

「叉手当胸」というのは、胸に右手を当ててその上に左手を重ねる姿勢で、座禅の合間にゆっくり歩く(経行)時の姿勢です。
坐禅の休憩という意味もありますが、動禅・歩行禅という側面もあります。
上座部の歩くヴィパッサナー瞑想(観)と似ています。
つまり、日常の中での瞑想(動中の工夫)のための修業です。
そのため、「叉手当胸」の姿勢はあるがままの自分の行動の象徴となります。

「拶処」の質問では、「法身」を越えて、「機関」や「言栓」に属する質問もされると思います。
例えば、「無を手軽に使っているところを見せてみよ」というような。


<機関>

「趙州洗鉢」(無門関・第7則)は最も分かりやすい「機関」の公案です。

「趙州禅師は、ある僧が「私は新参の雲水です。どうか老師ご教示を」と言ったので、「お前は粥座はすましたか」と言った。僧が「すましました」と答えると、禅師は言った、「そんなら持鉢を洗っておけ」。その僧は、はっと気がついた」

教理的な説明をすれば、日常の行いの中であるがままの自分を見つけよ、ということでしょう。


「水上行話」(五灯会元、宗門葛藤集・第49則)も代表的な公案です。

「僧が雲門禅師に問うた、「仏さんの出所はどこか?」 雲門は答えた、「東山が水上を行く」と。」

教義的な説明をすれば、水面に東山が動いているように映っている、それを見ている心がその東山そのものになりきって動いている、という状態を、悟りの心として示しているのでしょう。
単に概念をなくした無の状態ではなく、動的な心の状態を、そのまま表現しています。

解答例に2つあります。
1つは、叉手当胸で経行しつつ「サーサー」と唱え渓流に沿って歩いている様子をする。
もう1つは、「僧堂では副随は客の取継ぎをし、ご馳走を用意します。典座は米を炊き。殿司は晩課を読み、侍者は掃除をします。みんな大変忙しいのです。」などと、日常の行動について述べます。


<言栓>

「達磨安心」(無門関:第41則)は「言栓」の代表的な公案の一つです。

「二祖が達磨に言った、「心がまだ安らかではありません、どうか安心させてください」。達磨は言った、「心を持ってこい、安心させてあげよう」。二祖は言った「心を求めましたが、まったく得ることができませんでした」。達磨は言った、「君のためにちゃんと安心させてやったぞ」。」

教理的に説明すれば、落ち着かない心には実体がないことを理解することで、心を悟ることができる、という意味の公案です。
これは止観の瞑想法における対治の基本ですが、達磨はそのように説明せず、「心を持ってこい」、「安心させてやったぞ」と言うところが、絶妙です。


「雲門屎橛」(無門関・第21則、宗門葛藤集・第20則)は、「法身」にも「向上」にも配されますが、「言栓」にも配される公案です。

「雲門に僧が「仏とはどんなものですか」と尋ねたので、「乾いた棒状のクソだ」と答えた。」

教理的に説明すれば、仏(実相)を観念化・聖化せずに、日常の卑賤なものにも見ろ、ということでしょう。

単純にあらゆるものをあるがままに見るという観点なら「法身」の公案となります。
しかし、この公案の意味は、クソを仏(実相)として超越化しているのではなく、仏をクソへと現実化しています。

ですから、その意味で「クソ」を選んだ表現の妙という観点からは「言栓」の公案となり、仏を観念化の否定という観点を見れば「向上」の公案となります。


<難透>

「牛過窓櫺」(無門関・第38則、宗門葛藤集・第16則)は「難透」の代表的な公案の一つです。

「五祖法演禅師が云った、「たとえば水牛が連小窓を過ぎるようなもの、頭や角や、四つ脚と全部通り過ぎて行ったのに、どうして尻尾だけ通ることが出来ないでいるのか」」

教義的な説明をすれば、牛が通り抜けることは、自分の心が悟ることを象徴します。
答えとしては、自分が通り抜けている状態、つまり、あるがままの状態を示すことになります。

牛になって歩き回ることが、解答例となります。
「拶処」の質問として「この牛の背丈はどれくらいだ?」と聞かれれば、自分の背丈を答えます。

これは「現代相似禅評論」の解答ですが、これでは「法身」と変わりないので、「難透」らしい解答とは言えないのかもしれません。
通り切らない「尻尾」を何の象徴とするかで、「難透」、「向上」の公案となるのではないでしょうか。


<向上>

「白雲未在」(五灯会元、宗門葛藤集・第259則)は「向上」の代表的な公案の一つです。

「白雲が法演に言った「昔、慮山から数名の客が来たことがあった。彼らはみんな悟りを開いた人物だった。何かについて語れば、いつも文句のつけようがないくらい的を得たことを言った。公案について尋ねられればそれをみんな得心していた。しかも、その答えに正しい著語をすることができた。しかし、それでもまた十分とはいえない。」

「なにごとにも埒のあいた坊主達ではありませんか」と皮肉を言うのが、解答例です。
この解答も、このような皮肉を言うのはいかにも禅僧的で、はたして「向上」らしい解答と言えるのでしょうか。


「徳山托鉢」(無門関:第13則)も「向上」の代表的な公案の一つです。

「徳山和尚は、ある日、持鉢を持って食堂へ出てきた。そして、雪峰に、「じいさん、まだ合図の鐘も太鼓も鳴らんのに、持鉢を持ってどこに行かれるのです」と問われると、そのまますっと居間に帰って行った。…」

厳しい教育で知られ、すでに高齢の徳山禅師の、禅僧臭さの抜けた素朴な行動を示す公案です。

この公案の続きの部分には様々な解釈がありますが、ここでは触れません。


<後の牢関>

「後の牢関」には決まった公案がないようです。

先に「向上」で紹介した「白雲未在」は「後の牢関」として用いられる公案です。

「臨済一句白状底」も「後の牢関」として用いられる公案です。
「臨済の教え(臨済録)を一言で言え」という意味です。


また、「百丈野鴨子」(碧巌録・第53則)も「後の牢関」として用いられるようです。

「馬祖が百丈と道を歩いていると鴨が飛んで行くのが見えた。馬祖が尋ねた、「何だ」。百丈は「鴨です」と答えた。「どこへ行ってしまった」と尋ねた。「飛んで行ってしまいました」と答えた。すると、馬祖は百丈の鼻をひねり上げた。百丈が痛くて叫ぶと馬祖が言った、「飛んで行ってなどいないじゃないか」。」

馬祖は、主語を限定せずに尋ねています。
鴨ではなく、鴨を見ている自分の心について述べることを期待していたのでしょう。

この公案が、単に、鴨を見ているという日常的認識に対して、鴨を見ている心を問うているのなら、これは「法身」の公案だと言えますし、「後の牢関」には単純過ぎます。
そうではなく、鴨を見るという日常の行動や感覚対象(作用)の中に悟りを見る馬祖系の禅が、単なる凡夫と同じようになってしまう行き過ぎに対して、それに限定されない心を問うているのでしょう。
ですから、「痛い痛い」と言って百丈の感覚になりきるのは、解答となりません。

*白隠の人生や思想については、姉妹サイトの下記ページもご参照ください
白隠慧鶴の公案体系