最古層経典 | 仏教の瞑想法と修行体系

最古層経典

初期経典の内容は、釈迦没後すぐに500人の阿羅漢の確認のもとで成立したことになっています。
しかし、これは教団の教説を権威付けるために都合のよい内容ですし、それが事実であるという客観的な証拠はありません。
事実だとしても、経典が最初に記されたのは、釈迦没後数百年たってからです。
この間に内容が大きく変わった可能性があります。

その後も、その時代その時代に経典は再編集されたり創作されたりし続けました。
上座部のパーリ経典でも、ほぼ5世紀に形が決まりますが、それ以降もまったく書き換えられなかったわけではありません。

各経典の思想は異なり、変化しています。
一つの経典内でも、様々な不整合が存在する場合があります。
教団は、これを対機説法のためだと説明しますが、実際には、各教典の成立時期や成立過程が異なることが大きな原因でしょう。

ですから、釈迦の思想を確定的に知ることはできません。
さらに言えば、釈迦の思想にも、非整合性や時代による変化があっても不思議はありません。
それがない、釈迦の思想は知りうる、と言うのは、信仰の立場です。


しかし、文献学的な経典研究によって、最古層の経典のみを先入観なしに読むことで、釈迦の思想に近いものを知ることができると推測できます。

また、その後の仏教思想の変化と逆方向に遡ることで、釈迦の思想を予想することができます。


最古層の経典は、韻文経典で、韻律の古さ、引用関係の古さなどから、南伝の原始仏典の小部収録の「スッタニパータ(集経)」の、第4章として収められている「八つの詩句(義足経)」と、第5章として修められている「彼岸に至る道」です。
特に、前者の方が古いそうです。
(学者によっては異説もないわけではありません。)

その原典は、釈迦存命時に、弟子が布教時に使った口承経典である可能性もあるそうです。
これらの経典は、弟子たちが、樹木の下や洞窟、死体置き場などに寝て、遊行していた、まだサンガとして定住していない頃の思想を反映しています。

韻文ということもあり、韻律に合わせるため、パッチワーク的に構成されたものであり、ジャイナ教やヒンドゥー教(マハーバーラタ)の経典と共通する句(詩脚)もあります。
当時の沙門の多くは、思想を共有している部分があり、広く知られる句を共有して、それらを組み合わせて詩句が作られました。

それでも、これらの経典はかなり一貫した思想を示しています。
また、後の仏教思想とは根本的に異なる部分があることは、注目すべき点です。


例えば、「教義」、「戒律」、「儀式」などでは悟れないとして、それらを否定しています。
まだ、「教義」も「戒律」も「儀式」もなかったのでしょう。

特に、教義を持たず、論争しないようにと何度も言っています。
また、形而上学的な思考を拒否する姿勢を示しています。

初期仏教の基本概念とされる「無常」、「無我」、「縁起」、「輪廻」などの言葉すら出てきません。


例えば、「縁起」については、その思想的な芽生えを見つけることはできますが、いかにして「苦」が生じるかではなく、いかにして「論争」が生じるか、という文脈で分析されます。
このように、教義に執着して論争することを避けることを重視しています。

「法」に関しては、「諸法について執着であると確知すべきである」と何度も語られます。
この言葉は、「私は、これは真実であるとは説かない」、「それゆえに、諸々の論争は超越されたのだ」といった言葉と一緒に説かれます。

ですから「法に執着しないように」という主張は、実体の実在性うんぬんではなく、教義を持つな、論争をするな(他者の教義を否定するな)という文脈で語られます。

「~」が本当の仏説だ、といった論争をしている人が今もたくさんいますが、釈迦の姿勢とは正反対のものでしょう。


「輪廻」という言葉は出てこず、「再生」に「執着するな」とは語っても、転生が存在するとは一言も語りません。

「涅槃」に関してはあくまでも、現世での「涅槃」を説いています。
それは、心身の消滅ではなく、煩悩の消滅です。

「欲望の流れを滅する」ということを、比喩的に「激流を渡る」と表現し、同じ意味で「生(老)死を越える」と表現します。

少なくとも、「輪廻」というテーマについて、説法において、ほとんど関心を持っていなかった、と言えるでしょう。


具体的な修行法に関しては書かれていませんが、「常に気をつけているように」と何度も語られます。
「渇愛の滅尽を昼夜に観察しなさい」とも語ります。

「表象作用」や「識別作用」を否定することが繰り返し語られますので、言葉やイメージの対象が存在しないことを認識し、それらに執着しないよう、常に自覚して、放逸を避けるように、ということでしょう。

これは、時間を取って瞑想を行うということではなく、日常の中での常に注意を怠らないようにすべきであるということです。
後に「正念・正知」と呼ばれる行に近いものでしょう。

常によく気づき、世を空(スニャータ)であると、観察しなさい

ですから、上座部のヴィパッサナー瞑想(観)のような、アビダルマ論に基づいた法の識別は説かなかったでしょう。
むしろ、「世を空(スニャータ)であると観察しなさい」と語られます。