三学と止観 | 仏教の瞑想法と修行体系

三学と止観

修行の階梯として、多くの仏教を通して最も基本的なものは、「戒」→「定」→「慧」の「三学」です。
これが見られる最初期の経典は、「象跡喩小経」です。


「定」と「慧」が瞑想で、瞑想法の種類としては、「定」は「止」、「慧」は「観」に当たります。


仏教では、瞑想法を基本的に「止」と「観」に分けて考えます。
南伝のパーリ語では「ヴィパッサナー」と「サマタ」、北伝のサンスクリット語では「ヴィパッシュヤナー」と「シャマタ」です。
「止」は「随念」、「観」は「随観」と表現されることもあります。

「観」は仏教にしかないとされる瞑想法で、「止/観」という分類法は仏教に独特なものです。


「止」は何らかの対象に一点集中し、心を静める瞑想法です。
「観」は何らかの対象を観察・分析し、智慧を得る瞑想法です。

どちらも、分別(概念やイメージ)をともなう場合もあれば、ともなわない場合もあります。


南伝アビダルマ(スリランカ大寺派系の上座部)では、「止」と呼ぶのは、対象が観念の場合に限ります。
それに対して、「観」の対象は生滅する現実(諸行)であり、「止」と「観」は両立できません。
* 例外として、「涅槃」が「観」の対象となる場合もあります。

「原始仏典」や、他の部派仏教、大乗では、上座部のように、対象によって「止」と「観」を区別して使いません。
一つの瞑想に、両方の側面があり、その程度が変わると考えます。

ちなみにヒンドゥー教の古典ヨガでは行法が8段階に分けられていますが、その5-8の「プラティニャハーラ」、「ダラーナ」、「ディヤーナ」、「サマディ」は「止」に当たります。
また、仏教の影響を受けたものかもしれませんが、ジュニャーナ・ヨガやジャイナ教の瞑想法では「観」に似た方法を行うこともあるようです。


最古層の経典には「止」、「観」の言葉は使われていないので、釈迦も使っていなかったと思われます。
部派仏教の時代になってから、仏教の修行が「止」と「観」の観点から分類され体系化されていったようです。

原始仏典では、「止」と「観」がミックスされた瞑想法が多く説かれています。
実際、瞑想法をどちらかに2分することには無理があります。

また、「止」だけでも解脱できるし、「観」だけでも解脱できると説かれています。
「止」で、心を修して、貪を離れ、「心解脱」する、「観」で、慧を修して、無明を離れ、「慧解脱」する、といった具体です。

また、解脱にいたるには、「慧」、「定」、「信」の3つの方法があるとします。
「慧(観)」を通して聖者になった人は「随法行」、「見到」、「慧解脱」、「定(止)」を通して聖者になった人は「身証」、「心解脱」、「信」を通して聖者・阿羅漢になった人は「随信行」、「信解脱」と呼ばれます。

修行をする順番に関しても、「止→観」を説くこともあれば、「観→止」を説くこともあります。

同時に止観を行う方法も含めて、どの方法でも阿羅漢になれると説く一方、両方行うべき、と説かれることもあります。


しかし、やがて、釈迦は「観」の瞑想によって悟ったと考えられるようになりました。
「観」は仏教にしか存在しない瞑想法ですし、仏教は智恵を重視するので、強調されるようになったのでしょう。
これにともなって、修行の階梯の順番も、「止→観」が定着していきました。


煩悩は「止」によって一時的に抑えることはできても、なくすには「観」による智恵が必要とされました。
しかし、「止」よる集中力(定力)が深い智恵を得るために必要と考えます。


南伝の上座部では、「止観」は対象が別なので、「止」の後に「観」を修習しますが、北伝の部派と大乗では、「止観」の対象は区別しないので、「止」の後に、「止」を保ったままにそこに「観」を足して、「止観一体」を修習します。

上座部では、「観」は変化する現実を対象とするのに対して、「止」は不変な観念を対象とするから、両立しません。
しかし、厳密には「観」がなされる前に一瞬の間「止」の状態(近行定)が達成されるとして、これを「瞬間定」と言います。
つまり、変化する現実に対しては、一瞬一瞬の一体化があると考えるのです。


また、現在の上座部では、マハーシ・サヤドゥー以降、簡略化された瞑想法が生まれ、世界的に広がっています。
マハーシ流では、最初から「観」を行いますが、「観」を行う中で、自然に「止」の集中力がつき、「瞬間定」が達成されると言います。


「止」、「観」は仏教の修行・瞑想の基本であり、大乗仏教、密教、ゾクチェンにも受け継がれましたが、その方法や意味、位置づけは変化しました。

密教では「止→観」という階梯ではなく、密教独特の瞑想法の中で、「止」、「観」がほぼ同時に一体として行われます。