2013-02-14 11:23:12

三学と止観

テーマ:概論
修行の階梯として、多くの仏教を通して最も基本的なものは、「戒」→「定」→「慧」の「三学」です。
これが見られる最初期の経典は、「象跡喩小経」です。


「定」と「慧」が瞑想で、瞑想法の種類としては、「定」は「止」、「慧」は「観」に当たります。


仏教では、瞑想法を基本的に「止」と「観」に分けて考えます。
南伝のパーリ語では「ヴィパッサナー」と「サマタ」、北伝のサンスクリット語では「ヴィパッシュヤナー」と「シャマタ」です。
「止」は「随念」、「観」は「随観」と表現されることもあります。

「観」は仏教にしかないとされる瞑想法で、「止/観」という分類法は仏教に独特なものです。


「止」は何らかの対象に一点集中し、心を静める瞑想法です。
「観」は何らかの対象を観察・分析し、智慧を得る瞑想法です。

どちらも、分別(概念やイメージ)をともなう場合もあれば、ともなわない場合もあります。


南伝アビダルマ(スリランカ大寺派系の上座部)では、「止」と呼ぶのは、対象が観念の場合に限ります。
それに対して、「観」の対象は生滅する現実(諸行)であり、「止」と「観」は両立できません。* 例外として、「涅槃」が「観」の対象となる場合もあります。

「原始仏典」や、他の部派仏教、大乗では、上座部のように、対象によって「止」と「観」を区別して使いません。
一つの瞑想に、両方の側面があり、その程度が変わると考えます。

ちなみにヒンドゥー教の古典ヨガでは行法が8段階に分けられていますが、その5-8の「プラティニャハーラ」、「ダラーナ」、「ディヤーナ」、「サマディ」は「止」に当たります。
また、仏教の影響を受けたものかもしれませんが、ジュニャーナ・ヨガやジャイナ教の瞑想法では「観」に似た方法を行うこともあるようです。


最古層の経典には「止」、「観」の言葉は使われていないので、釈迦も使っていなかったと思われます。
部派仏教の時代になってから、仏教の修行が「止」と「観」の観点から分類され体系化されていったようです。


原始仏典では、「止」と「観」がミックスされた瞑想法が多く説かれています。
実際、瞑想法をどちらかに2分することには無理があります。


また、「止」だけでも解脱できるし、「観」だけでも解脱できると説かれています。
「止」で、心を修して、貪を離れ、「心解脱」する、「観」で、慧を修して、無明を離れ、「慧解脱」する、といった具体です。

また、解脱にいたるには、「慧」、「定」、「信」の3つの方法があるとします。
「慧(観)」を通して聖者になった人は「随法行」、「見到」、「慧解脱」、「定(止)」を通して聖者になった人は「身証」、「心解脱」、「信」を通して聖者・阿羅漢になった人は「随信行」、「信解脱」と呼ばれます。

修行をする順番に関しても、「止→観」を説くこともあれば、「観→止」を説くこともあります。

同時に止観を行う方法も含めて、どの方法でも阿羅漢になれると説く一方、両方行うべき、と説かれることもあります。


しかし、やがて、釈迦は「観」の瞑想によって悟ったと考えられるようになりました。
「観」は仏教にしか存在しない瞑想法ですし、仏教は智恵を重視するので、強調されるようになったのでしょう。
これにともなって、修行の階梯の順番も、「止→観」が定着していきました。


煩悩は「止」によって一時的に抑えることはできても、なくすには「観」による智恵が必要とされました。
しかし、「止」よる集中力(定力)が深い智恵を得るために必要と考えます。


南伝の上座部では、「止観」は対象が別なので、「止」の後に「観」を修習しますが、北伝の部派と大乗では、「止観」の対象は区別しないので、「止」の後に、「止」を保ったままにそこに「観」を足して、「止観一体」を修習します。

上座部では、「観」は変化する現実を対象とするのに対して、「止」は不変な観念を対象とするから、両立しません。
しかし、厳密には「観」がなされる前に一瞬の間「止」の状態(近行定)が達成されるとして、これを「瞬間定」と言います。
つまり、変化する現実に対しては、一瞬一瞬の一体化があると考えるのです。


また、現在の上座部では、マハーシ・サヤドゥー以降、簡略化された瞑想法が生まれ、世界的に広がっています。
マハーシ流では、最初から「観」を行いますが、「観」を行う中で、自然に「止」の集中力がつき、「瞬間定」が達成されると言います。


「止」、「観」は仏教の修行・瞑想の基本であり、大乗仏教、密教、ゾクチェンにも受け継がれましたが、その方法や意味、位置づけは変化しました。

密教では「止→観」という階梯ではなく、密教独特の瞑想法の中で、「止」、「観」がほぼ同時に一体として行われます。

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2 ■Re:質問。(日本の)座禅は「止」と「観」のどちらに該当?

>海亀さんコメントありがとうございます。

難しい問題で、お返事が遅くなりましたが、以下、私見を書かせていただきます。

禅宗は特殊な宗派で、アビダルマ以来の伝統的な止観の瞑想法を積極的には継承していないと思います。
「天台小止観」などを参考にしてきた部分もありますが、この書は、「物」を対象にすると「止」、心を対象にすると「観」であるかのように使っています。

ですから、座禅の瞑想は、「止」だとか「観」だとなかなか分類できず、両方の側面があったりすると思います。

ただ、本来、「禅」という言葉は「止」の類似語で、六波羅蜜の「禅波羅蜜」は「止」に当たります。
一方で、神会や馬祖のように、禅宗には「座禅」を否定、ないしは、積極的に評価しない思想もあります。


ご質問は、日本の曹洞宗や臨済宗の一般的な(初歩的な)座っての瞑想法についてのご質問だと思います。

曹洞宗の座禅は、目的を意図せず、「ただ座れ」と言われます。
何かに集中しろとは言われませんが、雑念が浮かんだ場合は、それに気づいて、そのままにします。
そのうち、心が静まってくるけれど、常に雑念が浮かんでは、それを捨て置くことの繰りかえしをすると。

雑念をしっかり観察するなら「観」ですが、そうではないようです。
ですから、対象が特定されませんが、基本的には「止」的な瞑想でしょう。

しかし、「観」の側面がなければ悟れないので、最終目標は、「止観」一体の状態だと思います。
ですが、「観」に関する手順なしに、ここに至るのは困難そうですね。


臨済宗の座禅は、一般に、公案を解くことを目的にして行います。
公案を対象に集中するという点では、「止」となります。

初歩の公案に関して言えば、それを契機に、無概念の状態に至ることが必要です。
この状態そのものもやはり「止」です。
しかし、その状態を対象とした気づき、観察を行えば「観」となります。
「見性」を得るには「観」が必要でしょう。

「打成一片」と呼ばれる段階は「止」、「驀然打発」と呼ばれる段階には「観」が必要ではないかと思います。

その後のレベルの高い公案の段階では、智慧を日常生活の中で自然に生かすためのものですが、あえて「止観」で分類すれば、「観」の割合が多く求められるのではないかと思います。

1 ■質問。(日本の)座禅は「止」と「観」のどちらに該当?

たまたま立ち寄ったのですが
仏教の瞑想法と修行体系
一部だけですが興味深く,読ませていただきました。
私はこの世界は,興味はあるのですが,浅い知識しかありません。
ところで,(日本の)座禅は「止」と「観」のどちらに該当するのでしょうか。

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