黒田如水(くろだじょすい)は幼名を万吉といい、主君小寺政職(こでらまさもと)から小寺姓を与えられ、元服して通称を官兵衛、諱(いみな)を孝高(よしたか)といった。のち、黒田姓に復し、出家して如水と号している。
如水は豊臣秀吉の軍師として知られているが、呪術者型の軍師ではなく、本陣である帷幄(いあく)に加わる参謀型軍師で、秀吉が織田信長の命を受けて「中国方面軍司令官」となったとき、如水が播磨(はりま)の武将たちを説得してまわり、毛利方につくか、織田方につくか迷っている者たちを、織田方につける勧降工作で活躍している。
秀吉が天正15年(1587年)に九州攻めを行ったとき、如水が前年から九州に入り、九州諸大名の勧降工作を担当し、すでに九州北部の武将たちは、秀吉軍の九州上陸を前になびいていたのである。如水の勧降工作であらかた足場を築いておいて、秀吉はただ総仕上げをするだけだった。
逆に天正18年(1590年)の小田原攻めのときは、21万とも22万ともいわれる大軍で小田原城の北条氏政・氏直を攻め、最後のとどめを如水が刺す形であった。如水が小田原城に単身、丸腰で乗り込み、開城を説得し、主戦派北条氏政もその説得に折れ、開城に同意しているのである。
九州攻め・小田原攻めという、秀吉の天下統一のキーポイントになる戦いに如水の果たした役割は高く、常識的に考えれば、論功行賞によって50万石くらい与えられて当然との思いがある。ところが、実際は、如水には豊前中津で18万石しか与えられなかった。はるかに年下の加藤清正が肥後熊本で25万石与えられていたのと比較しても“冷遇”の感がある。
一説には、秀吉が如水の智謀(ちぼう)を恐れていたからという。天正10年(1582年)、高松城を水攻めしていたとき、本能寺の変の第一報が入り、秀吉が茫然(ぼうぜん)自失の状態のとき、「これで殿の御運が開けましたな」と如水が冷静にいい放ったことが、自分以上の軍略を駆使する如水に対し、秀吉が警戒するようになったともいわれる。
その詳細はわからないが、秀吉も、如水に「権と禄(ろく)」の両方をもたせると危険だという判断をしていたのかもしれない。