読売新聞からです。(※画像は一部転載。リンク先でその他の画像が見られます)

http://www.yomiuri.co.jp/matome/shinsai5/20160226-OYT8T50087.html

震災5年 いまも待ち続ける動物たち

 

 

東日本大震災で避難所生活を強いられ、家族同然のペットや家畜を断腸の思いで自宅に置いてきた被災者は少なくない。特に東京電力福島第一原発の爆発事故で20キロ・メートル圏内は立ち入り禁止となり、そこに住んでいた住民の多くが今も家に帰ることができない。餓死するしかない動物たちを救おうと、震災直後から現地入りし、いまもエサやりボランティアを続けているフリーカメラマンの太田康介さんに、「動物たちのいま」を伝えてもらった。

 

フリーカメラマン 太田 康介

原発20キロ・メートル圏内はまるで紛争地

「犬がいます」「彼らはお(なか)()かせています」「私にはこれ以上どうすることもできません」━━。震災後、いち早く福島第一原発付近で取材していたあるジャーナリストのSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)上の(つぶや)きを目にして、心を痛めました。

 

 そのジャーナリストは自分たちの食料を犬たちに分け与えていました。それを見て「犬が飢えているならきっと猫も飢えているに違いない」と、大の猫好きな私はいてもたってもいられなくなってしまいました。出発までの3日間に準備したキャットフードと自分の食料、ガソリンの予備を軽自動車に積み込み、福島県へ向かったのが3月29日の夜。地震で波打ってしまった東北自動車道をひた走りました。二本松から山を越え、気温マイナス5度を指していた南相馬に着いたのは、翌30日の早朝3時半ごろでした。

 

 辺りはまだ活動するには暗く、道路には地震で出来た亀裂などもあり、海に近いところではがれきが手つかずで残っていました。

 

 もし、私がここで事故を起こしてしまっては、ただでさえ大変な状況になっている被災地にさらに迷惑をかけてしまうことになります。それは私が戦場カメラマンとして紛争地などで活動していたときと同じだと思いました。とにかく明るくなってから周りの状況などがわかるまではおとなしくしておくのが最善と判断し、国道6号線沿いの営業をしていないコンビニの駐車場に軽自動車を駐車しました。車内は荷物が満載のため、シートを倒すこともできません。ガソリンを節約するためにエンジンも止めましたから、凍えながら夜が明けるのを待っていました。

 

午前5時、南相馬市にサイレンが鳴り響きます。それが時刻を告げているのか、新たな警報なのか分かりません。ぼうっとしていた頭がサイレンのおかげですっかり目覚め、緊張が走ります。サイレン後は特に何も起こることはなく、慌ててつけたラジオでも何も言っていないことを確認して安心しました。そうこうしているうちに辺りはうっすらと明るくなってきました。

 その周辺では、たまに一般車両や自衛隊の車両が行き交うだけで、早朝ということもあって人気もほとんどありません。ひょっとすると、もう20キロ・メートル圏内に入ってしまっているのかと錯覚するほどでした。

 

 国道6号線を数キロ・メートル南下し「ここから20キロ・メートル圏内」と書かれたバリケードの横をすり抜け、いよいよ圏内に入ります。当然、バリケード付近は無人。まだこのころはそこに人がいて良いのかさえ分からず、私を止める人間は誰もいませんでした。ちょうどバリケードの先に橋があって、下を流れる川が私と同じ「太田」川という名前だったのが印象に残りました。

 

 3月30日の時点では20キロ・メートル圏内は退避勧告が出ているものの、4月22日に警戒区域に指定されるまでまだ1か月弱の猶予がありました。

 

 

住宅地を闊歩する馬たち

 

20キロ・メートル圏内に入って、国道を南下すること数百メートル行ったところで道路は寸断されていました。津波が結構内陸にある国道6号線を越えて押し寄せたようで、がれきが道をふさいでいたのです。脇道もなく、仕方がないのでバリケードまで一度戻り、20キロラインに沿って入れる場所を探し、生活道路のような細い道を見つけてまた仕切り直しで入っていくことになります。

 

 そこで初めて見た動物は猫でも犬でもなく、なんと馬でした。東京で暮らしている私にとって馬なんて生き物はそうそう会えるものでなく、彼らが飢えているのは分かりましたが、猫のために持ってきたエサも役には立ちません。かわいそうでしたがどうすることもできませんでした。

 

 「ごめんよ」。今思えば、この時から私は動物たちに()びながらの活動が始まったのです。それは現在も続いており、この先も続いていくのだろうと思っています。この後、数百メートル走るたびに犬に出会い、持ってきたキャットフードを彼らに与えながら猫を探します。しかし、猫にはなかなか会えません。警戒心の強い彼らはきっといるに違いないのですが、無人の街の建物に隠れてしまっていたのです。

 

今まで人と共に生きてきた動物たち。犬も猫も家畜たちも、人がいなければ生きてはいけないのです。そんなことは誰でも分かります。分かっているのにそうせざるを得なかった状況になってしまった。これはとんでもないことが起きていると背筋が寒くなる思いでした。

 以後、私は毎週のように20キロ・メートル圏内に通い、猫たちにエサを置きながら記録を残してきています。その中には目を背けたくなるような状態の写真があります。(つな)がれたまま餓死している犬たち。家に閉じ込められ餓死した猫たち。食べ物を求めさまよい力尽きたであろう犬猫たち。牛舎や豚舎、鶏舎に閉じ込められたまま餓死していった多くの牛、豚、鶏たち━━。

無力な自分にできること

 いったい、自分に何ができるのか。私一人がエサを運んでもたかが知れています。ならばやはり商売道具であるカメラを使って20キロ・メートル圏内で起きていることを、できるだけ大勢の方々に知ってもらうことに全力を注ごうと決めました。3年間は、ほぼ毎週のように福島に通い続け、猫のエサを置きながら(犬も食べることができる)、無人の街をさまようように回って写真を撮り続けました。
 

 たくさんのボランティアたちが、首輪をしている飼い猫と、野良猫を分け隔てなく給餌や保護をしていましたが、それでもそこからもれてしまった犬や猫の死体などがところどころで目に付いていました。死んでしまった動物たちはもちろんかわいそうではありますが、もうこれ以上苦しむことはないのだと自分の気持ちを納得させ、なんとか冷静さを保つことができました。

主がいない家を守り続ける犬たち

私の胸が本当に痛んだのは生きていた動物たちです。犬の場合、「家を守る」という仕事があって、それを愚直に守っている犬がいました。

 鎖やロープを外されていても家から離れることもなく、飼い主が帰ってくるのをひたすら待っているのでした。

 

 飼い主以外に心を開かない犬も少なからずいて、そのために保護することができずに死んでいった犬もいました。

 

 ある犬は同じ飼い主に飼われていた鶏たちに自分の餌を与え、自分は落ちている餌を拾って食べていました。その犬は餌を与えようと近づく私に吠え掛かり攻撃をしてくるのです。家を守る。そのために彼らはそこにいたのでした。

 

またある犬は瀕死(ひんし)の重傷を負った状態で発見されました。同じく一緒に飼われていた鶏を守るために、野犬化した複数の犬と戦って傷を負っていたのでした。鶏などは食べるものがなくなった時など一番の食料になるはずです。しかし彼らにはまったく手をつけず、犬小屋の裏に積まれていた籾殻(もみがら)を食べていたのでした(保護後、フンの内容で確認されました)。

 

 

飼い猫は家の中に閉じ込められ、やがて食料が尽きて死んで行きます。数軒ですが、外に出ようと、窓の内側の障子を必死で破った形跡があるお宅も確認しています。

 

 外で生きていた猫たちは、人()れしている子は私が行くと駆け寄ってきて餌をねだりました。人に馴れていない子たちは餌を置く私がその場を離れるまでじっと待っていました。馴れている子もいない子もそれぞれやせ細って首輪がゆるゆるの状態になっていました。死と隣り合わせの状態でいた訳です。

 

 

手を差し伸べられなかった家畜たち

 こうした犬や猫たちの状況も大変(つら)いものではありましたが、何よりもひどい状態で哀れだったのは家畜たちです。震災前、20キロ・メートル圏内で飼育されていたのは、牛3500頭、豚3万頭、鶏44万羽といわれています。

 

 特殊な動物では三十数羽のダチョウもいたのです。こうした家畜たちはあまりに大きく、そしてあまりにも数がたくさんいて、さらに牛舎や豚舎、鶏舎といったひとつの場所に集中していたことで悲劇が増幅されたのでした。しかも彼ら家畜に対して、素人の自分のできることがほとんどなかったこと……。この無力感や絶望感がさらに自分を苦しめ、人間のために生まれ人間のために死んでいく彼らのことを思うと、本当に人間とはなんと罪作りな生き物なんだと情けなく悲しい気持ちになっていました。

 

 人命を守ることが第一なのはわかります。しかし、1年、2年、3年と、月日が重ねられても動物に対しての国や行政による大規模な救出活動は行われませんでした。犬や猫は民間のボランティアたちが細々とレスキューしていて助かった命もありましたが、ほとんど大多数は消えていってしまいました。

 

 20キロ・メートル圏内で現在生き残っているのは猫や犬たちと牛。猫は今もボランティアたちが続けている給餌活動でかろうじて生き残りました。私のような個人でできるのは給餌活動ぐらいのもので、しかし、それで猫たちは生きていくことが出来ているのです。国による殺処分指導に同意しなかった農家の人たちが世話をしている多くの牛たちが、生き残っています。経済価値のなくなった牛たちをこれから先も生かしていくのは、とんでもなく大変なこと。募金に頼るしかないエサ代の確保もいつまで続くか分かりません。牛たちの運命は私たちがいつまで関心を持ち続けていられるかで決まるような気がします。

 

 

エサをやるだけでは解決しない

 

一方、猫たちはどうでしょうか。帰還困難区域を除き、人が住んでいないとはいえ誰でも行けるようになってきました。人が住んでいないということは特殊ではありますが、そこに生きている猫の世話をするのはさほど難しいことではありません。全国の野良猫たちのお世話とほとんど変わらなくなってきています。

 

 しかし、かわいそうだからといって、エサのみを与えるやり方では猫たちは無制限に繁殖して、その結果、給餌が追いつかず餓死させてしまうことになりかねません。これも野良猫たちと同様に、TNR(捕獲し不妊手術を施し元いた場所に返す方法)を実施して数をコントロールしなければいけません。浪江町では現在、同町で開業していた獣医師と一緒になって、震災以降ずっとボランティアで犬猫を保護してこられた住民の方が中心となり、TNR+S(リターン後も生かすためのサポート。SはSupportの頭文字)活動をしています。さらにその活動を地方から来るボランティアがサポートするという体制も整っています。

 


エサやりで野生動物が繁殖


私も微力ながら、エサを守るための給餌箱を製作しTNR後の「S(サポート)」のお手伝いをさせていただいているところです。

 

 震災後2年ほどは、犬や猫たちをただただ生かすために、私も含めたボランティアがドッグフードやキャットフードの袋にカッターナイフで切れ目を入れて雨の当たらないところに置いて回っていたのです。人間がいなくなり、やがて野生動物たちや、タヌキ、キツネ、イノシシ、ハクビシン、アライグマなどが町に降りてきて、労せずして栄養満点の餌を手に入れていきました。それにより彼らは繁殖していき、その結果、猫たちの生活を脅かすことになったのは想定外でした。

 

 同時に無人の人家に入り込んで荒らすなどの被害も出てきています。現在、野生動物を繁殖させないようにするため餌を食べられないようにする工夫が望まれています。そして一番大事なことは地域の猫は地域の人間が面倒を見るということ。現在はまだ帰還できている場所は一部分だけです。

 

 住民が帰ってこなければ猫の世話なども難しいでしょう。しかし、規制が解除になった地域でも圧倒的に帰還住民が少なく、世話をしようという人が現れていません。この春、南相馬の小高区など、避難指示解除の地域も増えてきていますが、まだまだ猫たちの受難は続きそうです。

福島の悲劇が教えてくれたこと

 今回の福島の悲劇は私たちに教訓を与えています。原発の事故がなかったとしても、災害で家を離れざるを得なかった場合、ペットたちをどうするのか。それが問われています。

 

 福島では、ペットを連れて逃げても、避難所では動物を受け入れてもらえなかったり、許可されていても保護場所で人とペットの距離が近すぎて飼い主が遠慮したりしてしまうことがあったといいます。まずは避難場所を提供する行政がしっかりとペットを保護できる場所を確保するようにすること。しかし口をあけて待っているのではなく、「ペットとの同伴避難」を当たり前に出来るよう飼い主ひとりひとりが行政に働き掛けなければいけないでしょう。

 

 ペットは家族。なにが何でも守るんだという気持ちを持って、さらに自分たちの周りに生きている小さい弱い命を守ることこそが自分の身を守ることにもつながる。そんな結論に、この5年の活動でたどり着いたような気がしています。