通販生活からです。

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20キロ圏内で幸せそうに暮している
“しろ”と“さび”。


――今年2月に発行された写真集『しろさびとまっちゃん』には、事故のあった福島第一原発から20キロ圏内にある富岡町でのびのびと暮らす“しろ”と“さび”の姿が掲載されていますね。


太田  白猫の“しろ”とさび柄猫の“さび”は、原発事故後に福島県の保護施設前に捨てられていました。もう少しで保健所行きになるところを“まっちゃん”こと松村直登さんによって保護され、富岡で暮しています。
 松村さんは、富岡町で生まれ育ちました。原発事故後、一度は富岡を離れようとしたものの、親戚を頼ろうとした松村さんを待ち受けていたのは「被ばくした人間は来るな」という言葉。仕方なく避難所を目指したのですが、すでにいっぱいで入所を拒否されてしまいました。
 行くあてをなくした松村さんが富岡に戻って来ると、そこにはたくさんの動物たちがいました。3.11後、20キロ圏内にはたくさんの動物たちがとり残されていたのです。地震と津波によって甚大な被害を受けたうえ、原発事故のために警戒区域に指定され、避難指示が出されたからです。「数日で帰れる」と告げられて避難した飼い主さんたちの多くが、動物たちに餌をあげに行くこともできなくなった。事故の前まで人間と一緒に暮していた動物たちは、何が起こったかも分からぬまま、飢えと渇きに苦しんでいました。
 富岡に残された動物たちの姿が自分と重なったのかもしれません。現在松村さんは、しろとさびのほかにも犬や牛、ポニーなどたくさんの動物たちと一緒に暮しています。松村さん曰く、「ここで生きることが闘い」。警戒区域の指定は解除されたものの、富岡に住んでいた人たちが安心して帰って来られる日がいつになるのか、誰にもわからない。富岡で動物たちと共に生きることは、国や東京電力に対する松村さんなりの抗議なのでしょう。
 でもしろとさびは、「そんなことは知ったこっちゃない」とばかりに、のびのびと暮しています。ごはんと寝床の心配がなく、自然の中を駆けまわって思う存分遊び、大好きな松村さんとお散歩に行くこともできる。本当に幸せそうなんですよ。

くっついて眠るしろとさび。
(撮影 太田康介)

20キロ圏内では犬も猫も、家畜も
みんなが飢えと渇きに苦しんでいた。

――太田さんご自身も、20キロ圏内に残された動物たちの給餌や保護活動を続けていますね。


太田  はい。私は猫好きなので、事故後20キロ圏内に残された猫のことが気になってしょうがなかったんです。それで、動物ボランティアの方々と連携しながら活動してきました。富岡での活動中に偶然出会ったのが松村さんでした。富岡に留まって動物の世話をしていると聞き、一度しっかりお話を伺いに行きたいとは思っていたものの、20キロ圏内での活動中はとにかく時間に追われるため、なかなか会いに行けなかったんです。でも「子猫が松村さんのところに来た」と聞いたらもう、いても立ってもいられなくて、会いに行っちゃいました(笑)。その“子猫”というのがしろとさびなんです。
 しろとさびの姿には心底癒されるのですが、20キロ圏内にいるほかの動物たちの姿には胸が痛むことも多かった。私が保護活動を始めたのは2011年3月末。当時すでに事故から3週間が経っていましたから、餓死している動物もたくさん目にしました。死ぬまでにどれほど辛い思いをしたかと思うと胸が痛みますが、すでに死んだ子に対しては「苦しみから解放されてよかったね」と思える。むしろ、私がかわいそうだと思うのは生きて苦しんでいる子たちです。ある犬は、私の姿を見ると嬉しそうに駆け寄ってきました。餌をあげたのですが、食べることよりもスキンシップを求めてくる。突然とり残され、人恋しくてしょうがなかったのでしょう。またある猫は、悲しくなるほどがりがりに痩せて、餌をあげると夢中になって食べていました。こういう子たちを救ってあげたい。その思いで活動を続けています。
 でも、救ってあげたくても自分の力ではどうにもならないと思うのが家畜です。2011年の4月、私は浪江町の牛舎を見に行ったのですが、あの光景は未だに忘れられません。私が牛舎に近づくと、牛たちがいっせいに啼き始めました。牛舎の中は、地獄のようでした。牛たちは、すでに餓死した仲間の側で糞尿にまみれ、痩せ細っていました。まだ歩ける子は、柵越しに私の後を追いかけながら啼きました。もう立つことができないほど衰弱した子も、私の方を見て啼きました。みんな、餌と水を求めて啼いていました。でもどうしてあげることもできない。牛たちをこんな目に遭わせたものは何か。どうして自分は何もしてあげられないのか。頭の中が抱えきれない思いでいっぱいになった私は、ちきしょうちきしょうとつぶやきながら、牛たちにカメラを向けました。助けてあげられないのなら、せめて写真に残しておきたいという一心でした。
 牛だけでなく豚も鶏も、多くの家畜がこんな辛い目に遭いました。彼らは被ばくしたことにより、経済的な価値をなくしてしまった。国は家畜を全頭殺処分するようにという指示を出しました。私は、それも仕方がないことだと思いました。どうしてあげることもできないなら、早く楽にしてあげてほしかったのです。
 でも、松村さんは違いました。富岡の牛が殺処分される時に「俺が面倒を見る。だから殺すな」とためらいもせず言ってのけました。松村さんも、富岡の牛舎で牛たちの惨状を見ていたのです。食事としていただく命には意味があるけれど、被ばくした牛たちを食べることはできない。悲惨な思いをして生き抜いた牛たちを意味なく殺すのは、あまりにかわいそうじゃないか。松村さんはその思いで、およそ30頭もの牛を世話しています。家畜を育てた経験も知識もないのに、牛たちを見捨てたくない一心で行動しています。それがどんなにすごいことか。私は松村さんの行動をみて、考えを改めました。私には家畜を飼育することはできません。でも松村さんのように世話をしてくれる人がいるのなら、その人たちを応援しようと思うようになり、現在も20キロ圏内の牧場などで牛の写真を撮り続けています。

弱っている牛を獣医さんに診てもらう。しろはおっかなびっくり見守っている。
(撮影 太田康介)

目の前の一匹を救うために、
自分にできることから始めてほしい。

――残された動物たちを取り巻く環境はとても過酷ですが、『しろさびとまっちゃん』に掲載されている写真はとても穏やかです。この写真集には、どんな思いが込められているのでしょうか。


太田  20キロ圏内で今も苦しんでいる動物たちも、しろさびのように幸せに暮らせるようにという思いです。よく、人のいなくなったところでは動物たちが野生化すると言う人もいますが、少なくとも事故前まで人間と一緒に暮してきた動物たちが突然野生化するはずはないのです。彼らはあまりに過酷な状況に追い込まれました。それでも、残された動物たちのことが報じられることはほとんどなかった。国や行政も動物の保護に乗り出しましたが、始めるのがあまりに遅く、規模も小さすぎました。20キロ圏内で動物の保護活動を続けてきたボランティアの方もいますが、行動を起こしたのは社会の中のほんの一握り。残された動物たちも原発事故の被害者です。動物たちの命を救うために、たくさんの人に行動してほしいです。

朝もやの中、散歩に出かける一人と二匹。
(撮影 太田康介)


 私は現在、猫の給餌を行なっています。東京からの通いなのでそう頻繁ではありませんが、餌をたくさん入れておける餌台を自作するなどして工夫しています。全ての人に、私と同じように活動してほしいのではありません。自分にできる範囲で構わないのです。できることがすぐには思い浮かばないという人にも、20キロ圏内に残された動物たちに関心を持ち続けてほしいです。
 松村さんは目の前の一匹、目の前の一頭を救うということを積み重ねてきた方です。一度にたくさんの動物を助けることができなくてもいいのです。目の前にいる一匹に当たり前に手を差し伸べる社会になれば、人間のせいで苦しむ動物はいなくなります。
 『しろさびとまっちゃん』の最後のページには、しろとさびが並んで歩く後姿の写真を掲載しました。動物たちがこれから歩む未来を決めるのは、私たち一人ひとりです。「目の前の一匹を救う」ことを、みんなが当たり前にできる社会を実現するために、これからも写真を通して訴え続けていきます。


しろさびとまっちゃん
福島の保護猫と松村さんの、いいやんべぇな日々

KADOKAWA(本体1100円+税)

おっとりして愛嬌のある“しろ”と、おてんばで甘えん坊の“さび”が、福島第一原発20キロ圏内という「非日常」の中で、飼い主である松村直登さんと共にすごすあたたかな日常を切り取った写真集。

太田康介(おおた・やすすけ)1958年、滋賀県生まれ。編集プロダクションのカメラマンを経て、1991年よりフリーに。アフガニスタンやボスニア・ヘルツェゴビナなどの紛争地域の撮影を経験する。東日本大震災後は福島第一原発20キロ圏内で猫たちの給餌などをするかたわら、残された動物たちの姿を撮影し続けている。著書に『のこされた動物たち』『待ちつづける動物たち』(共に飛鳥新社)などがある。