起きれなくて遅い昼食にかかってしまい銀行に行けず、記事とニュースをPCで眺めていたらちょっと憂鬱な気分になる。

 その憂鬱な気分のひとつは、反政権や安保法案反対や反原発を表明する人の側の、コップの中の嵐みたいなことの喧しさで。どいつのどどいつさんが記事で述べていらしたような事が多いのよね。

 寛容性と云うことを自分ではとても重要に思っているんだけど。それは自分がかなり短気で潔癖な面もあるという自戒によるけど個人的にはともかく、社会的寛容性っていうのは呑気に愉しく生きられるのには必要だからね。

 もう日本はダメだろうという意見がかなりあって、それを見れば分析的にもあたってるなぁとは思うんだよね。けれど希望の無い社会でも、個人の希望とか理想とかってなくなる事はない。それは他がどう言ってるとか世間の流れがとかではなくってね。

 それで、シールズを巡る話ってのも一つの例で、どっと政治好きなおっさん達が、やれ実は改憲国民投票に持ち込むための偽運動だとか、共産党下部組織だとか批判したり、中核排除や逮捕者を見捨てて、警察にお礼言うデモってなんだとか色々あるのよね。

 裏があってそれが見えても、それには黙って肯定的にみようとしてるのは、本質から外れないようにと思っているからで。運動とか社会正義とか民主主義とかイデオロギーや運動、から離れて眺めているからね。個人視点というの我がままでもそれを大切にしてるからで。

 個人の市民運動から政治運動に変わってしまうのを避けてほしいとシールズに対しては思っていて、若い人が自分の身に引き付けて政治や社会をみつめる機会になったのはいいことだなぁと思うからね。

 過去の学生運動などから過激のレッテルを貼られまいとするのも判るし、逆に革命ごっこにもなっていないって批判も理解できるから複雑なんだけど。政治がいかに人間性を破壊するかってこともね。

それと、真珠湾が攻撃が討ち入りと同じとか、忠臣蔵が忠義と全体主義的な軍国主義に使われてるというのは、現政権が都合よく日本人のメンタリティを使うという点においてはその通りでも、例えには疑問を持ったりする。

 なんか江戸期のことって肯定的に話されること少ないよね。封建的制度で奴隷根性が育ったとか、武士道が非人間的好戦的な全体主義とか言われてるとつい、ちょっとまってよねぇとか思うんで。物事の一部を解釈すれば、それは肯定的にも否定的にもみられて、どこに立つかは恣意的な選択だろうから。

 だけど、「匕首が喉元に当てられているような情況」の匕首を「あいくち」と読めない人から反論を受けて、これは「あいくち」ですと答えてもあいくちって何だよ、という反応だったりすると、もう話をしたくない。すいませんと断ってしまう。というような事も多々ある。

 話し以前に日本語力の衰退にがっくりしちゃったりしてね。それは自分の勝手ではあるんだけど。議論は好まないし、最近年よりは尊敬されないし、老害とか邪魔とか思われているようで丁寧に話しかけてもこないからね。

 お天気で気分は悪くないんだけど、こういうネットを眺めているとちょっと憂鬱な気分になるんだよね。じゃさっさと散歩行けってことなんだけどね。軟弱な記事ですまんのう。