根岸肥前守鎮衛(やすもり)ってお方が江戸の時代におりやして。このお方は「耳袋」なる市井の話を綴った筆まめな御奉行さまでござんした。

 今でも小役人ってのはなかなか処しがたい者で。時代物では、御代官様は大体が悪党でございやすね。反対に、江戸の御奉行さまてぇと、庶民の味方に描かれる事が多いのでございやす

 たしかに地方の郡代奉行や長崎奉行などは、時として賂を受けて密貿易やら、越後屋や土地の顔役とつるみまして悪さもするってぇもんでやす。

 江戸のお奉行様というと、何といっても大岡裁判の大岡越前守さまが名高く、逸話も瓦版やら黄草子にも描かれて好まれやした。桜吹雪の刺青の遠山の金さんもまた、人気者でございますな。

 庶民にとっては、少しでも貧乏人の味方ってぇことで、お上といえども身近に思うんでありやしょう。

 大岡越前守忠相(ただすけ)が八代吉宗の時代で、遠山の金さんこと遠山佐衛門の尉景元は、十三代家定の時代。間には百三十年の間がございやすが。

 その間にもう一人の名奉行様がおりやして。それが根岸肥前守鎮衛(やすもり)。十代家冶、十一代家斉と続いてお役を賜ったお方。時代物の中でも、平岩弓枝の「隼新八郎シリーズ」や、宮部みゆきの「霊験お岩」にも描かれておりやす。

 最後の時代劇シリーズ「怒れ!求馬」でも、主人公求馬の爺ぃ様として、陰で彼を使い市井の事件を解決する役回り。
 「耳袋」は市井の面白話やあやかし話、事件の話などを、エッセイのようにつづったもので。奉行の仕事やその当時の暮らしっぷりや、古老や夜鷹の話までが、生き生きとした筆づかいで描かれていやす。

 時代劇の中では、この洒脱で粋な爺さんが一つの魅力になっていて。話のしまいには「耳袋」帳に、あらましを記すとこで終わる。武士言葉に、べらんめぇが混じる活舌がもう痺れるんで。大田蜀山人がまた飄々としたいい爺いっぷりで、こういう脇ぞろえが物語の妙ってぇもんでやす。

 それで、根岸肥前守鎮衛(やすもり)ってぇお方は、もとは貧しい150俵取りの御家人の、安生家の三男坊として生まれた。

 三男坊と云えばね、冷や飯食いって呼ばれて、どこかに婿入りするか特に学問に優れていなければ、役職にも付けず、生涯長兄の厄介者といわれている不運な生まれ巡り。

 山本周五郎には「冷や飯物語」って、爽やかな短編もあるんでやすが。貧乏御家人の三男坊という殆どもう未来の無い鎮衛(やすもり)でございやしたが。

 同じ150俵の御家人根岸家の当主が30でころっと亡くなった。そこで実父の定洪が根岸家の御家人株を買って、末期養子として鎮衛に根岸家を継がせたいきさつがあるんでございやす。

 この時代には「御家人株」って、武士の身分も金で売り買いされるせちがなさで。末期養子ってのは当主が亡くなって、跡取りが居ないと家が潰れちまうから、息を引き取る直前養子にしたって事にして家名を残す。息を引き取る前に養子捜しに家人が走り回っているんじゃ、病人もおちおち安らかに旅立てねえってもんだね。

 大名も嫡子が無くお取り潰しになっちまうと、家臣も路頭に迷って、失業者が江戸に出て食い詰めては不逞な事をするってぇんで、吉宗の頃にこの末期養子を認めるようになったんでやんす。

 それにしても貧乏御家人の実家に、かなりの銭金があったとも思われず、鎮衛(やすのり)は、じつは裕福な町人か豪農の出ではないかという説もございやすの。

 実際、根岸家の当主となると同時に勘定所の、御勘定方って中級幕史になるんで、勘定方は今で云えば大蔵省の係長みたいなもん。貧乏御家人は、大体小普請組って閑職で、そこから抜け出して役職に付くってのはかなり異例の事とされてやしたから。かなり黄金菓子が動いたって下衆のかんぐりでげすが。

 しかし鎮衛(やすもり)は五年後には評定所留役って、今で云う所の、最高裁判所の予審判事みたいな役につきやして。更に五年後には勘定組頭、10年後四十二歳で勘定吟味役になり、布衣(六位)を得る。ほいってねのぁ一応天皇さまに御目見えできるてぇ位だね。

 大蔵省局長クラスの役職に、課長クラスを飛び越えてついたのは異例な出世で。勘定吟味役ってのは会計検査院長あたりでやしょうかね。

 公務員試験を首席で通った大田蜀山人でさえ生涯平の勘定方で、まぁ蜀山人せんせはいっぷう変わったお人でやんしたから出世を望んでもいなかったでしょうぜ。

 その後やっさんは、河川工事、東照宮の修復、浅間山の噴火語の復興工事に才腕を振るい、加増を受けて佐渡奉行になる。やはり有能な役史であった事は間違いないねぇらしいやね。

 こういう工事方を任されるってぇのは、能力の見せ所で大岡忠相もその手腕が認められて取り立てられておりやすな。
 大岡忠相は吉宗の寵愛を受けて、北町奉行と南町奉行を両方とも務めたのは、越前守だけでございやした。

 最後には大名にまで昇って、吉宗が隠居してからも側に仕えて、彼の葬儀を仕切って翌年後を追うように亡くなる。なんとも始末の潔いとこもまた庶民の人気を集めたんでやしょうね。

 やっさんの方は、老中の田沼意次が鎮衛のことを、美濃郡上藩の百姓一揆の処遇の有能を認めて引き上げたようでありやすが。策士、才子という能力のあるお人でも、それを見出す眼力あってのことといえやす。

 天明六年、田沼意次が失脚し、変わって松平定信が老中首座になった。田沼に認められ可愛がられていた肥前守は、政変に巻き込まれる事もなく、引き続き定信にも引き立てられる。

 じたばた見苦しく地位にしがみつく輩が多い中、やっさんはじっと政変を眺めた。その泰然とした態度をかわれ500石加増を受けて勘定奉行に、つまり旗本になった。

 御家人として武家のどん底辺から出発しながら、その後は己の才能を大いにふるって出世したんでやすがこれも運否天賦というもんでございやしょうね。

 定信の寛政の改革は失政で、やがて定信は失脚しちまいやすが、やっさんはその政局も乗り切り、ついに江戸南町奉行となった。江戸町奉行在職18年間で、最後の加増を受けてこんな狂歌を読んでいる。

 御加恩をうんといただく500石八十の翁の力見てたべぇ

 狂歌ってぇとこが江戸っ子でやんすよ。好々爺のふりして結構したたかな爺いは、不敵にどや顔でつづったのか。きさくな爺さんが洒脱に笑う姿かはとりようでござんすが。見てたべえ、でやすからね。

 当時としては長生きで、子や孫の成長を眺め、趣味の将棋物書きと愉しみつつ、身奇麗にその翌年辞職、翌月には亡くなっている。
 やはり才能ある者は引き際が身奇麗ってぇもんで、飛ぶ鳥跡を残さず。ただ今の、どなたかやらにも見習って貰いてぇもんでやんすね。

 南町奉行としては多くの名裁きが残っておりやして。上流で取ってはならぬ鯉を船河原橋の下で捕ったと訴えがあった。船河原橋下ってのは上じゃなく下のことじゃねぇかい。とばかりにやり過ごし罪人を出さなかったとか。

 津波で船が永大橋にぶつかって橋の管理者が、船がぶつかって橋が壊れたから橋の修理費を船方に弁償しろと訴えでた。津波であって船も大破してる事だし勘弁しねぇかぃ、と言っても頑固に弁償しろと譲らない。

 橋が壊れたのは船がぶつかったのが原因だが、船が壊れたのは橋があったからだ。じゃ互いの修理費を互いで出すかぃ。やっさんはそう言った。

 船の修理費の方がはるかに高くつくと、橋の管理人は訴えをとり下げた。もちろん両方に修繕のお下げ両を包んでやった。となかなか粋なお裁きでございやす。

 北町の民事訴訟で茶屋が寺の住職に、茶漬け飯代として50両を請求した。茶漬け飯が50両とはいかにも高すぎる。当時の北町奉行が首を捻っていると。
 その茶屋は何処にあるんでぇと鎮衛が口を挟んだ。湯島天神前だと答えると、そりゃ「子供踊り」を見過ぎたのだろうよっ。

 寺の住職は顔を赤らめて支払いをのんだ。湯島は男色の茶屋が多く、それを「子供踊り」と呼んでいたからで。住職は今なら風俗通いのツケが溜まったてぇわけだね。やっさんの耳は驢馬の耳ではなかったようで。

 こういう下世話な事情も、鎮衛はちゃんと知っていた。だから庶民からも自分達の側に立って、お裁きをして下さると人気があった。今のお白州はどうなんでやしょうね。

 出世の理由は色々あっても、そこから先にどう身を処するかが問われるってもんで、まいない、隠蔽、ごまかし、無能とてんてんこ盛りの、世の幕閣の方々はやっさんの爪の垢でも分けていただきたいってぇもんでございやすね。

 ちょいと耳袋の話を書こうかと思って、無い頭をひねっていたんで、頭が江戸を向いちまって口調が乱れておりやすが、ご勘弁でやんす。