秋にはなんの罪無く爽やかな朝で。今年は街の中心に越したから、近所の家の金木犀の香りも愉しめなかったのが残念。季節の移り変わりも少しづつおかしくなっているような気もするけど。

 愚かなのはつねに人の営みの中にあって。自分も無知で愚かだと思うことは度々あるんだけどね。
生き残りゲームってジャンルもあるんだけれど、人生そのものがある種の生き残りゲームのような、昨今のありさまで。

 放射能汚染も10年前には想像もつかない現実で、今の難民問題だって他国のことと言い切れない。もう一度原発事故が起きたら一億総活躍する前に一億総難民だしね。再稼動が始っているなかで、そうならないとは誰も言えない。

 英語も話せない黄色い何考えてるか判らない好戦的な日本人を、どこの国が受け入れてくれるか想像してみれば判る。福島災害時、義援したり支援してくれた国に、武器輸出してお返ししてるんだからね。海外にいざとなったら受け入れてくれる友人を作っておいた方がいいかもしれない。

 サバイバル番組をディスカバリーで見るんだけど、食糧難の時に野草の見分け方や昆虫の食べ方だって水の確保だって知ってた方がいいよね。自分はそうならないって誰もが思っているけど、今のような世の中では何が起こっても不思議ではないからね。

 毎日何万トンも食糧が廃棄され、消費に煽られてジャブジャブ使い捨ての社会が長く続くわけはないのだから。まして先日のバングラディシュ日本人射殺事件のように、テロの標的にたまたまなってしまう可能性さえ高まっている。

 医者だろうか人道支援の人でも、それが戦争なんだから。日本人に指一本触らせないなんて大法螺吹いても絶対に今の政権が守るわけはない。戦争の切っ掛けに利用する事はあってもね。

 究極のサバイバルって云うと「ウオーキング・ザ・デッド」ってドラマはあるんだけど。ゾンビ映画は数あれど人間ドラマとしてとても優れている。まぁどんな捜査物でも映画でも、そこに人間ドラマがあるからこそ心が共鳴するって言えるけど。

 それはサヴァイバルしなければならぬ時に、狂気の情況の中で正気を保つ事の難しさだね。今は平和で安寧な時代だと思っている人は別に、危機感の持ち方は人によって違う。呑気第一の自分でさえそう思う。

 「なう」でぼやいたんだけど、ツイッターで呟いた記憶遺産のことが400とかリツイされたら、わらわら能たりん一言コメが来てびっくり。反日とか初めて言われて笑った。

 そういうのは、中味がからっぽで誹謗アカらしいが。自分は誰かのつぶやきやブログに行って喧嘩も勝負も挑むようなことはしたことないつもりだけど。反論もまず書かない。肯定的共感性ってだいじにしてるからね。

 意見は自分の領域でやればいいことで、人の土俵で相撲を取るなと思うだけ。無視してしつこいのはブロック。愉しくない事は極力避ける。そこにその人也の誠実があれば自分の意見を書くこともあるけどね。

 宮崎の日向製作所のスラップ訴訟を、知人が傍聴していて昨日判決が出た。彼が仕事を休み丁寧に傍聴を続けてそれを記事にしていたが。

 黒木さんって主婦が産業廃棄物の健康被害に危機感を覚えて、それをブログやツイッターで発信したことが、逆に会社から訴えられて裁判になった。判決は、全面敗訴で彼女は75万を会社側に支払わねばならず、ブログや発信の削除を求められた。今後グリーンサンドは安全ということになってしまったんだね。

 一人の主婦が、どれほど化学的根拠を示せるのか考えてみれば判るけど、彼女にとっては負担ばかりで何の利益もないことよね。自分の裁判時を振り返っても、何度も挫けそうになった。

 過去の水俣やカネミ訴訟などの公害訴訟を眺めても、まったく沈黙の春でレイチェルカーソンが訴えた遙か昔から、百年の愚行は何も変わっていないばかりか、ネットで晒しまくられて生活さえも脅かされる恐怖は以前にはなかったことだよね。だから政権も企業も、ネット監視やバイト雇って攻撃させたりもするんだろうけど。

 こうやって、福島の健康被害や企業倫理のない行政との癒着さえ伺える問題で、情報の開示も無く司法までが信頼できない情況は、ほんとにサバイバルなんだって思う。

 植木鉢のちっこい芽をだしたほうれん草とブロッコリーに水をやりながら、自分のサバイバルを想う秋なのだ。