こないだ久しぶりにモールの本屋に歩いていった。コスタリカのガイド本と、金沢百枝さんの「ロマネスク美術革命」をほしいなぁと思ったから。

 残念ながらガイド本も大したものが無く、ロマネスク本は字が小さくて読めそうも無く写真をさらりと投げめるだけで値段が厳しいので諦めてしまう。江戸本も出ていたけど、江戸の諸藩の解説だけで買うほどのこともなし。

 現政権になってから、特に日本語の劣化とか言われているんだけど、日本語の教育の成果かネット言葉の蔓延か判らないけれど。日本語の本来の意味や言葉の本質がどんどん変わって行くような不安は感じる。あれっ、おかしい表現だなぁとか、そりゃおめえ違うだろうと突っ込む事も多い。

 自分は、人権とか平和って言葉が好きではない、そんなことを言ったり考えたりしないですむ方がいいって思っている。お花畑に蝶が飛ぶって人間なの。

 だけど、一つの言葉が否定されるってことはとても社会的な背景があるんだよね。言葉狩りとかがあって、発言や発信の一つの言葉を取り上げて批難するのはおかしいだろってことよね。

 以前、災害後の福島に行って「死の町」だって感想を述べて失脚した政治家もいたけど、当時に比べて今の政治家の発言なんか眺めていたら、即刻辞職した方がいいと思うような言葉だらけだよね。居酒屋おっさんの卑猥な話ならまだしもよ。公職ってそういう責任も含むんだからね。

 小うるさいばばあってことになってしまうんだろうけど。軽いのはともかく不愉快でとんちんかんで、しばらく呆然としてしまうような表現も眼にする。
逆に政権批判だからといって、安倍バカ死ねばかりってのも能がないとは思うけど。

 春と修羅さんも取上げていらしたけど。いまや「平和展」とか平和が付くと公民館や公共施設が借りられないとか。小学生の「平和が作りたい」って卒業作文が、政治的批判を含むって文集に載せられないと教師に拒否されたりって、なんだろうと思う。戦前だよね。

 表現者、一部報道人1000人位が、表現の自粛に反対表明をしたようだけど。「いま政権を批判するのは、テロリストを利する」とか「このような非常時には国民一丸となって政権を支えるべき」って反論もあるようなのね。みごとな全体主義国家だよね。一億が大好きなんだ。個人は迷惑か。

 現在が非常時なのはその通りで、むしろ、そういう自覚の無い方の方が多いと思うけれど。非常時であろうと平常時であろうと、為政者へ批判や行政への疑問はあたり前の市民の義務だし、大人の責任でもあるよね。義務とか責任も好きな言葉じゃないけどね。

 政治や社会を語る言葉って、難しいし学者的意見や記事を読むと頭痛がするヘタレなんだけど。自分がこのもしく思う日本語が、本来の意味も本質も刷り変えられて、強権政権の勇ましい言葉が踊る紙面も言論も、ひどくおぞましいように思う。

 「美しい日本を取り戻す」って述べる総理が、美しくない日本語で日本をつぶしちゃまずいだろうよ。

 今日は体調波が低調なんで、てれってれのてれすこなんだけど。てれすこは干した物をすてれんきょうと呼ぶのです。意味が判る方は落語好きだね。