最近こっそり読んでるブログでね、前のバカの話の人なんだけど。夜中にイケナイ・サイトをこっそり覗くみたいに読むの。
別にこっそりする事は無いんだけど、極論満載だから、人にも勧められないのよね。
子供を持つなとか、メガバンクは潰せとか、まぁ共感性を求めているようでは無いし、オピニオンとしてはすごく面白いんだけど。
そんでユーモアについての話なんだけど。
彼が若い時に係わっていたミニコミの同窓会にいったのね。同窓会っていうのは成功者の集いだって云われるけど、確かにあたしなんぞ、同窓会があっても行けない落ち零れでやすが。
その同窓会でも成功者が多かったが、さすがに嫌味な人はいなくて。懐かしく昔話で盛り上がったらしいのだけど、何か違和感を感じたと。
それが何であるかずっと考えていたらしいんだけどね。
あの愉快だった仲間たちが、まあ仕事人間になってしまったのはわかる。優秀な人たちだから、職場でも信頼され重要な仕事を任されている。それが生きがいになりプライドになるのもわからなくはないと。
それでは、何が変わったのか。アメリカ映画を続けて何本か観たとき、はっと気がついたそうなのね。
アメリカ映画は、脚本がよくできているものが多い。悲しい別れのとき、絶体絶命のピンチのとき、激しい口論のとき、物事がうまくいったとき、どんな場合でも、セリフの中にユーモアがまじっていると。
これがアメリカ文化というもんで、言葉でケンカができず、すぐ手が出たり感情的になって泣き崩れたりする日本人とは国民性が根本からちがうからなのか。
かつては数分おきにジョークを連発していた連中が、中年になり、全くといっていいくらい言わなくなっていたのだと思い至ったそうなの。
もとから偏差値の高い人たちで、そのジョークはレベルが高かった。それだけに、よけいに激しい変化を感じたと云うのね。
偏差値とジョークの関係については疑問もあるけど、本意はユーモア力(りょく)っていうのは歳をとるほどに増すはずだってことね。
ユーモア力とは、ある意味は文脈力であって連想力であり、文脈力や連想力は、人生経験で見聞や知識が増えるほどに加速度的に高まるもんだとね。
若いときは瞬間芸的ジョークしか言えなくても、歳をとると含蓄のある複雑なジョークを言えるようになるものなのだと、彼は考えるのね。
親父ギャグって、無理やりギャグって笑わせようとかは、ちょっとしらけるけどねぇ。
それで、ユーモア力も急には消失しない。
そのいつの時点でもいいから、なぜ気がつかなかったのだろうか。体重だってそうだが若い時の倍とか3倍になる前に、なぜ気づいて対処しなかったのかと思うって。
耳の痛い事いうよね。体重が25才当時と変らないあたしはうふふっと思うけどね。メタボの方はどきっとするだろうねぇ。
人間は歳をとる。内面も外見も変化する。生理的な加齢は避けられないにしても、精神的な加齢はある程度避けられる。
自分の「ユーモア力」が減ってきことに気がついたら、手遅れにならないうちに対処すべきだと。。
ユーモア力の減少に気づかなかったのは、「ユーモア」を大事なものだと思っていなかったからだろうと彼は推測するんだけど。
さて、ユーモア力とはどうすればつくのかだよね。
少し前なんだけど、あるブロガーさんが自分のブログに反応が少ないのは、記事にユーモアが不足なんだろうかと嘆いてたの。
その方のブログもかなり読んだんですが、他人のブログを批評するのは、はしたないしコメントも書けなかったんだけど。
自分を突き放して笑うような面は一切ないのよね。ユーモアってどこかで自分も突き放して笑うような、そういう目線が必要なんじゃないかとも思うんだけど、どうだろ・・
どんな暴君もユーモアを殺すことができない。つまりユーモアこそが生き延びるための知恵であり、人類を破滅から救うただ一つの思想の種子であるということにほかならないという、その考えには同意するの。
ナチスと日本軍国主義とスターリンの恐怖政治や、ポル・ポトの粛清と中国の文化大革命とマッカーシズムやら、連合赤軍の同士殺しとアルカイダと黒シャツ隊とイスラエル軍と機動隊には共通点がある。ユーモアのほぼ完全な欠落である、って。確かにねぇ。
ユーモアは精神の余裕から生まれる。余裕のないときはジョークも出ない。しかし、死の床にあってもジョークを言える人、そういう人こそ大人というべきだろう。
ううむ、私は高校生のときにビアスの「悪魔の辞典」を読んで笑い転げて、卒論はベルグソンの「笑い」だったの。今でもブラック・ジョークも好きだけど。
息子とは、今でも冗談言って互いに笑い転げることもあるけど。そこまでユーモアについて考察してはいなかったなぁ。
彼はユーモアの身に付け方として、ザ・ニュースペーパーや綾小路きみまろでもいい、瞬間芸的ではない漫才や落語、コメディー映画などでネタを仕入れて、それを
知らないと思われる人に使ってみる事を勧めている。。
それを繰り返すうち、しだいにオリジナルなジョークを言えるようになる。世の中をナナメに見る柔軟性も身についてくるってね。
ユーモアのおそるべき力を知らずその重要性を理解しない人間を、バカと呼ぶことにどんなためらいも必要ではない、って彼らしいなぁ。
でも、笑いは世界を救うじゃないけど、時に勇気を与えてくれる、どん底の自分を笑い飛ばせるのは、確かに力になる。
チャップリンの映画に勇気や愛を貰った人も多かろう。
あたしもお笑いは好きなんだけど、最近のお笑い芸人は芸が薄いように思って笑えないのよね。
せいぜい、落語の寄席やテレビ寄席でも見て、ユーモア力を付けたいと思う婆ぁでやんす。
綾小路きみまろをひとつ。
「体重計、そーっと乗っても、デブはデブ」
別にこっそりする事は無いんだけど、極論満載だから、人にも勧められないのよね。
子供を持つなとか、メガバンクは潰せとか、まぁ共感性を求めているようでは無いし、オピニオンとしてはすごく面白いんだけど。
そんでユーモアについての話なんだけど。
彼が若い時に係わっていたミニコミの同窓会にいったのね。同窓会っていうのは成功者の集いだって云われるけど、確かにあたしなんぞ、同窓会があっても行けない落ち零れでやすが。
その同窓会でも成功者が多かったが、さすがに嫌味な人はいなくて。懐かしく昔話で盛り上がったらしいのだけど、何か違和感を感じたと。
それが何であるかずっと考えていたらしいんだけどね。
あの愉快だった仲間たちが、まあ仕事人間になってしまったのはわかる。優秀な人たちだから、職場でも信頼され重要な仕事を任されている。それが生きがいになりプライドになるのもわからなくはないと。
それでは、何が変わったのか。アメリカ映画を続けて何本か観たとき、はっと気がついたそうなのね。
アメリカ映画は、脚本がよくできているものが多い。悲しい別れのとき、絶体絶命のピンチのとき、激しい口論のとき、物事がうまくいったとき、どんな場合でも、セリフの中にユーモアがまじっていると。
これがアメリカ文化というもんで、言葉でケンカができず、すぐ手が出たり感情的になって泣き崩れたりする日本人とは国民性が根本からちがうからなのか。
かつては数分おきにジョークを連発していた連中が、中年になり、全くといっていいくらい言わなくなっていたのだと思い至ったそうなの。
もとから偏差値の高い人たちで、そのジョークはレベルが高かった。それだけに、よけいに激しい変化を感じたと云うのね。
偏差値とジョークの関係については疑問もあるけど、本意はユーモア力(りょく)っていうのは歳をとるほどに増すはずだってことね。
ユーモア力とは、ある意味は文脈力であって連想力であり、文脈力や連想力は、人生経験で見聞や知識が増えるほどに加速度的に高まるもんだとね。
若いときは瞬間芸的ジョークしか言えなくても、歳をとると含蓄のある複雑なジョークを言えるようになるものなのだと、彼は考えるのね。
親父ギャグって、無理やりギャグって笑わせようとかは、ちょっとしらけるけどねぇ。
それで、ユーモア力も急には消失しない。
そのいつの時点でもいいから、なぜ気がつかなかったのだろうか。体重だってそうだが若い時の倍とか3倍になる前に、なぜ気づいて対処しなかったのかと思うって。
耳の痛い事いうよね。体重が25才当時と変らないあたしはうふふっと思うけどね。メタボの方はどきっとするだろうねぇ。
人間は歳をとる。内面も外見も変化する。生理的な加齢は避けられないにしても、精神的な加齢はある程度避けられる。
自分の「ユーモア力」が減ってきことに気がついたら、手遅れにならないうちに対処すべきだと。。
ユーモア力の減少に気づかなかったのは、「ユーモア」を大事なものだと思っていなかったからだろうと彼は推測するんだけど。
さて、ユーモア力とはどうすればつくのかだよね。
少し前なんだけど、あるブロガーさんが自分のブログに反応が少ないのは、記事にユーモアが不足なんだろうかと嘆いてたの。
その方のブログもかなり読んだんですが、他人のブログを批評するのは、はしたないしコメントも書けなかったんだけど。
自分を突き放して笑うような面は一切ないのよね。ユーモアってどこかで自分も突き放して笑うような、そういう目線が必要なんじゃないかとも思うんだけど、どうだろ・・
どんな暴君もユーモアを殺すことができない。つまりユーモアこそが生き延びるための知恵であり、人類を破滅から救うただ一つの思想の種子であるということにほかならないという、その考えには同意するの。
ナチスと日本軍国主義とスターリンの恐怖政治や、ポル・ポトの粛清と中国の文化大革命とマッカーシズムやら、連合赤軍の同士殺しとアルカイダと黒シャツ隊とイスラエル軍と機動隊には共通点がある。ユーモアのほぼ完全な欠落である、って。確かにねぇ。
ユーモアは精神の余裕から生まれる。余裕のないときはジョークも出ない。しかし、死の床にあってもジョークを言える人、そういう人こそ大人というべきだろう。
ううむ、私は高校生のときにビアスの「悪魔の辞典」を読んで笑い転げて、卒論はベルグソンの「笑い」だったの。今でもブラック・ジョークも好きだけど。
息子とは、今でも冗談言って互いに笑い転げることもあるけど。そこまでユーモアについて考察してはいなかったなぁ。
彼はユーモアの身に付け方として、ザ・ニュースペーパーや綾小路きみまろでもいい、瞬間芸的ではない漫才や落語、コメディー映画などでネタを仕入れて、それを
知らないと思われる人に使ってみる事を勧めている。。
それを繰り返すうち、しだいにオリジナルなジョークを言えるようになる。世の中をナナメに見る柔軟性も身についてくるってね。
ユーモアのおそるべき力を知らずその重要性を理解しない人間を、バカと呼ぶことにどんなためらいも必要ではない、って彼らしいなぁ。
でも、笑いは世界を救うじゃないけど、時に勇気を与えてくれる、どん底の自分を笑い飛ばせるのは、確かに力になる。
チャップリンの映画に勇気や愛を貰った人も多かろう。
あたしもお笑いは好きなんだけど、最近のお笑い芸人は芸が薄いように思って笑えないのよね。
せいぜい、落語の寄席やテレビ寄席でも見て、ユーモア力を付けたいと思う婆ぁでやんす。
綾小路きみまろをひとつ。
「体重計、そーっと乗っても、デブはデブ」