久しぶりにブログを更新します。

 家のことやら、依頼された講演の準備やらで、時間が取れませんでした。

 で、講演について少し報告いたします。

講演は精神科医の増田さやか先生から話をいただきました。場所は愛知県岡崎市の某所。

 こじんまりとした、和気あいあいの雰囲気で、私の立場は……ほぼボランティアでした(^o^)丿

 テーマは「子どもと精神医療」です。

「子どもと精神医療」といえば、どうしても(良し悪しは別にして)「発達障害」は避けて通ることのできない問題です。

 発達障害に対する意見はさまざまあることは承知していますが、「現実的に」考えて、そのテーマを抜きに子どもと精神医療の問題を語ることは不可能でしょう。

 事実、子どもへの向精神薬の処方がかなりの割合で増加している理由の一つに、過剰診断も含めた「発達障害」の診断があります。

 それで私は「あなたの子どもを守るため――子どもの精神医療の現状について」と題して、主に発達障害について一生懸命話しました。

 しかし、1時間ほどの講演のあとの質疑応答の中でちょっと気になることがあり、とても考えさせられました。


 正直、質問された方が何を言いたいのか、よくわからなかったのですが、「「発達障害」ではなくて「愛着障害」だと思える子どもが多い」(学校関係者の方でした)といったような言葉があり、その場合どう対処すればいいのか、忙しいお母さんが愛情をかける時間がないようだが、どう対応すればいいのか(といったような内容だったと思います)。

 忙しいお母さんのことは、私にはどうすることもできませんし、シングルマザーや核家族化、女性も働かざるを得ない経済状況など、これはもう精神医療の範疇を出ていますので、そのようにお答えしました。

 ただ、その方が一番言いたかったのは、「発達障害」ではなく「愛着障害」じゃないか、ということだったようです。

 発達障害? 愛着障害? 育て方の問題? AC(機能不全家族)? それとも単に子どものわがまま? 

 子どもに何か問題(行動)が起こる場合、理由は一つではありません。その子どもを取り巻くさまざまな要因が重なった結果として、その子はそういう行動(症状)を取るようになるわけです。

 ですので、「発達障害じゃなくて愛着障害」という考え方は、発達障害はレッテル貼という批判があるようですが、だとしたら、今度は単に「愛着障害」という別のレッテルを貼っているに過ぎないことになります。

「発達障害だから〇〇だ」といういい方には違和感がありますが、発達障害概念に対する批判から発生する他の理由探しは結局別のレッテルを貼っているに過ぎなくなります。

 現場にいる方なら、子どもと真の意味で関わっていれば、発達障害だろうが愛着障害だろうが、ACだろうが、目の前にいるその子はその子以外の何者でもないはずです。

 ただ、何か理由があってそういう行動(症状)になっている。

 その問題の根本には何があるのか……それを知ろうとすること、その一助として「発達障害概念」はあると、私はとらえています。

「発達障害などない」という意見を耳にします。

「反精神医療」的立場から言わせれば、発達障害は(精神科医、あるいは製薬会社によって)作られた障害である、との主張だろうと思います。だから、そんな障害は存在しないのだと。

 その結果として、子どもの行動(症状)はほとんどが「愛着障害」が原因であるという論理が出てくるのでしょう。

 これは発達障害概念が出てくるまでの論理でした。

 つまり、養育環境の問題、親の育て方の問題、もっとはっきり書けば子どもの問題行動は「親のせい」というわけです。

 そこに発達障害概念が登場し、それまで自分を責めざるを得なかった親たちは救われました。「育て方が悪かったからではないんだ。そういう障害だったのだ」と、自己責任を回避できる回路が与えられたのです。そして、医師も親に向かって「育て方が悪かったから」というより「障害である」という説明の方がしやいので、発達障害の過剰診断が発生したという経緯はあります。

 そして、それが行き過ぎると、今度は何でもかんでも発達障害のせいにして、「愛着障害」を議論から締め出しているという揺り戻しの現象が起きました。

 また、「発達障害」について語ることは、反精神医療の旗を掲げる人たちから見れば「裏切り行為」「寝返り」に見えるのかもしれません。

 事実、私のブログにしょっちゅうコメントをいれていたある女性ですが、私が発達障害の二次障害について記事を書いた途端、「裏切られた」気持ちから、私への批判を自身のブログで展開し始めた方がいました。でも、おかしいのは、その方、しばらくすると発達障害の方を対象にしたカウンセリングを始めたようで、なんとお金までちゃんと取っているのです。たくましいというか……。

 ま、これは余談にしても、「発達障害」を語る者は精神医療に魂を売ってしまった、くらいにとらえる人がいるのは事実です。要するにゼロ百思考、「発達障害はあるか、ないか」の答え次第で、敵か味方かを判断しようとする、ある意味とても窮屈な思考です。

 一方で、そういう人間の性向をよく知っている人は、「発達障害などない」と吹聴することで、人集めをしたりします。「反精神医療的思想」を持つ人にとっては、受け入れやすい話です。

 さらに、「障害」という言葉を受け入れられない人にとっても、「そういう障害はない」という話は耳触りのいいものです。

 私もあるお母さんとメールのやり取りをしていて「あら?」という体験をしたことがあります。アスペルガーと一度は診断されていたお嬢さんについて、では親御さんとしてどう関わっていけばいいのかといった方向に話が進んだときのこと。その方はメールで、「うちの娘を障害者呼ばわりしないでください」とたいへんお怒りになりました。いや、アスペルガーと診断されたこともあると書かれていたので、それを前提に話をもっていっただけなのですが、「障害」というものに対する抵抗感は相当なものです。

 ということは、残念ですが、その方自身、(先天的な)「障害」に対してかなりの「偏見」を持っているということだろうと思います。

 そもそも「発達障害はない」という言葉は何を表しているのでしょう?

 そういう「障害」はない?

 そういう「特性」などない?

 しかし、感覚過敏だったり、ストレスに滅法弱かったり、情報処理の仕方が大多数とは少し違うという子どもが存在しているのは否定しようもない「事実」です。

 それを否定することはある意味「傲慢」です。そういう感覚過敏が辛い、という訴えさえ「ない」ことにしようというわけですから。

 発達障害ではなく、愛着障害というとらえ方をしていると、アドバイスとして「愛すればいい」「愛して愛して愛し抜けばいい」というとてもヒューマンな答えが出てきがちです。

 しかし、「愛する」って、どういうことなの?

親が与える「愛」と子どもが求める「愛」が必ずしも同じでない場合があります。

もしかしたら、その子が求めているのは「愛」ではなく、静かな「部屋」かもしれないのです。もし、そこに「発達特性」という概念がなかったら、いくら親が愛しても、子どものイライラは治まらないかもしれない。どうしてわかってくれないんだと、お互いに相手が理解不能のまま溝だけが広がっていくかもしれない。

そういう意味で、愛着障害も養育環境も発達障害もすべてをトータルに考えることが大事なのではないかと思うのです。

「発達障害などない」といって、何かが良くなるのならいいです。

 しかし、概念を否定することは、その問題の本質を探ることも否定することになります。思考停止です。

もう一度書きます。「発達障害などない」といって何かが解決するならいいですが、私にはそうは思えないのです。