(1からのつづき)


 それでもなんとか8カ月の「独房生活」に耐え抜いたM男さんは、H病院からT病院に転院することになった。

 ストレッチャーで拘束されたまま搬送され、そこでも最初の1週間は隔離室。というのも、H病院の主治医が紹介状にM男さんについてかなりひどいことを書いていたらしいからだ。暴れるとか、すぐに喧嘩をするとか――実際には一度もなかったにもかかわらずだ。

 それでも、T病院の待遇はH病院よりはましだった。

 M男さんは何を言われても反論せず、ひたすら大人しくしていた。そのかいあってか、3ヵ月で退院となった。

 そして、ここでもまた病名がついていない。それどころか、T病院では医師から「何の病気がいい?」と訊かれているくらいである。M男さんは、病名などもうどうでもいいと思った。

 

 一方、両親は、M男さんがH病院に入っている頃、彼をグループホームに入れようとしていた。こういうところがあるから、行ってみないかと言われたが、M男さんは「そういうところには行きたくない、俺は病気じゃないし、普通に生活したいから」と答えた。



3回目

 3回目の「拉致」はそのまた3年後のことである。1998年。

野球が好きで、試合を観に行こうとしているときだった。やはり警備員がやってきて、このときはタクシーに乗せられた。後から両親が車でついてきた。

「拉致」されるとき、M男さんは両親に、「せめてT病院にしてくれ」と頼んだが、連れていかれたのは、別のW病院だった。

 そして、病院に到着するといきなり注射を打たれ、そのまま隔離室に1週間。

 この病院には入院して30年40年になる、いわゆる社会的入院の人が多くいた。退院するには「死亡退院」しかないようなところ。

 20歳頃親にこの病院に入れられて、そのときすでに50歳くらいになっている人がいた。親の面会など一度もないと言っていた。もっともM男さんの両親も面会に来たのは最初の入院のときだけで、その後の入院には一度も来たことがなかったが。

「でも、M男ちゃんなんかまだ可能性があるよ。俺なんか……」

 すっかりあきらめている様子にM男さんは胸が痛んだ。

 病院の敷地内に院長の住まいがあり、まさに独裁。院長がすべての実権を握っているような病院だった。



 それでもしばらくすると、またしてもT病院に転院になった。

最初は閉鎖病棟だったが、1ヵ月ほどで開放病棟に移された。そして、退院の話が出たとき、一つの条件を出された。グループホームに入ること。もし嫌なら、退院はない。

M男さんは自分の気持ちを押し殺して、グループホームに入ることを承諾した。とにかく、病院を出ることが先決だったのだ。

しかし、グループホームでの生活はどうにも彼には窮屈だった。自分の意思とは違うところですべての物事をやれなければならない……。

結局、グループホームを抜け出して、M男さんは働こうと考えた。しかし、無理やり飲まされた薬の影響が残っていたし、長い隔離室生活のため体力も落ちていて、思うように働くことができない。

いろいろ考えた末、彼は両親を説得して、1年間T病院のデイケアに通うことにした。その間に薬を体から抜いて、体力をつけるつもりだった。



父親に警察を呼ばれて4回目の入院

体力もついてきて、そろそろアルバイトでも始めようかと考えているとき、4回目の「拉致」となった。

そのときM男さんは父親と話をしていた。しかし、どうにもかみ合わず、結局口論のようになってしまい、たまたまM男さんの手が父親に触れると、父親は「殴られた」と騒ぎだし、110番通報された。

駆けつけた警察官によって、M男さんは3度目に入ったW病院へ入院となった。

しかし、そこで、彼はある人に出会うのである。

少々やくざな感じのする人だったが、M男さんの話を聞いて、同情したのか、ある程度まとまったお金をくれた。これを持って、逃げろ!


病院を出たM男さんは、その後電話で病院に対して、正式に退院を認めるよう交渉を重ねた。病院側はなかなかうんと言わない。父親と電話で話したときも、一緒に院長と話をするために戻ってこいと言われたが、もうその手にはのらなかった。

看護師長とも話した。彼女はM男さんが最初に入院した病院にその頃勤めていたらしく、彼のことを知っていた。

「あなた、どうせ病気で、働けないでしょう」

そういう彼女の言葉を聞いて、M男さんは決意した。

「じゃあ、働けばいいんだな」と。



こんなことが、この日本で起きていることの恐ろしさ

 結局、17歳のときにはじまった、両親による精神科病院への強制入院は4度にわたり、それがようやく終わったとき、すでに8年の歳月が流れていた。17歳から25歳。

 現在37歳のM男さんは仕事をしながら、自立した生活を送っている。

「それでも、もう10年以上たっているけれど、いまだに夢をみることがあります」という。

いかなる診断名もないままに、病院(しかも複数の病院)は両親の言うまま、M男さんを入院させ、保護室という独房に「監禁」した。

「病院から出てしばらくは、電信柱に「~内科」とかいう看板を見ただけで恐怖がよみがえってきた。白衣の人を見ても怖かった。2回目に入れられたときは雨の日で、しばらくは雨の日に外出するのもできませんでした。そういう恐怖は経験した人でなければわかりません。絶対に」


「自分が何を言っても、まったく聞き入れてくれない。それが何より恐ろしい」

 とM男さんは繰り返した。自分の意思が無視される、理屈が通じない、話にならない、言えば言うほど深みにはまっていく恐怖。

 ある病院の看護師ははっきりM男さんにこう言ったという。

「これからは、お前のこと、物として見るから」


「お前ら、覚えておけよと何度も何度も自分に言い聞かせた。その気持ちがなかったら、潰れてました。8ヶ月間、隔離室に入れられたときも、こいつら絶対にただじゃおかない。そう思っていないと正気を保つことができなかった。今でもその気持ちがあるから、何とかやっていけるんです」

お前ら、覚えておけよ……しかし、彼はこの経験をほとんど誰にもしゃべっていない。ただ、2回目の病院から出てきたとき、親友にだけは話した。親友はこう言ってくれた。

「俺は誰が何と言おうとおまえのことを病気だなんて思わない。辛いだろうけど頑張れ!!



 M男さんが経験したことは、病院の犯罪とも言うべきものである。しかし、こうした話は結局、闇から闇へと消え去っていく。マスコミも取り上げることはほとんどない。精神医療の問題は一種タブー視されているようなところがある。下手につつくと面倒なことになるという思いがあるのかもしれない。

「こういう被害にあった人間の駆け込み寺のような場所がまったくないんです。被害にあった人間はひたすら胸に押し込んで、忘れようとするしかない。でも、精神科病院の経験は、本当に、死ぬか生きるかなんです。それなのに、こういう事実が、ほとんど表に出てこないことが、かえって恐ろしい」

ヘンリーさんの事件を挙げるまでもなく、精神科病院が家族間の問題の「ゴミ箱」として利用されているというのは事実である。冤罪ならぬ「冤病」として、「邪魔者」を精神病者にして病院に葬り去る。(事実、M男さんの父親は、彼に向かって「一生、ぶち込んでやる」と言ったことがあるそうだ。)

にもかかわらず、そうした被害はほとんど表に出てこないのは、日本という国の人権意識の低さの証拠だろうか。精神病者に人権はないと考えているからだろうか。

そして、また、○○警備保障が行う「搬送業」も、考えてみれば恐ろしい商売である。電話一本で駆けつけて、有無を言わせずはがいじめにして、精神科へと「拉致」していく。そこでもまた、理屈の通じるすきはない。彼らは彼らの「仕事」をしているだけなのだ。

 それにしても、M男さんの場合、結局4度の入院歴がありながら、一度も病名がついたことがなく、数多くの検査をしたにもかかわらず、一度も検査結果を告げられたことがない。

 ということは、病院側も、M男さんを「病人」とはとらえていないというだろう。親から依頼され、一種「こらしめ」のため入院させて、独房に閉じ込めた。医療という名を借りた犯罪的行為(いや、犯罪そのもの)……。



 親子間の諍いは、珍しいことではない。しかし、そうしたひずみに、ふっと精神医療が入り込み、利用される。そして、それを誰も問題視することがない。そんな信じがたいような経験をどこへ訴えることもできず、ひたすら胸の底に溜めながら、これまで生きてきたM男さんの人生を、その無念の気持ちを思うと、言葉を失う。



 現在、M男さんは、じつは警備会社で働いている。警備会社に勤めるには、精神疾患がないことを証明する診断書の提出が義務付けられており、そこに勤めているということは、病気ではない証拠になると考えたからだ。さらに、「搬送業」についても、いろいろ調べられるかもしれないという思いがM男さんにはあった。

 ヘビーメタルには相変わらずのめり込んでいる。ヘビメタは反骨精神。いいか、お前ら、覚えておけよ……。

今回、M男さんはその思いを初めて語ってくれた。自分に何ができるのかわからないが、せめてこの事実を伝えることで、世間に知ってほしかったと。

こんなことは絶対にあってはならない。いかなる咎もなく、こんな扱いを人間にしていいはずがない。隔離室は人間のいるところじゃない。薄笑いを浮かべながら、それを平気で行う精神科病院……絶対にゆるせない、お前ら、覚えておけよ……。

その気持ちがあるから、M男さんはこの経験を何とか乗り越えることができたのかもしれない。