先日(26日)、松山の笠陽一郎医師に会ってきた。

 この先生とはいずれお会いしなければとずっと思っていたが、なんとなく機会を失い、また正直ちょっと敷居が高いという気持ちも確かにあった。

先生の主張や実践されていることは、本やホームページに詳しいし、うなずくことも多い。しかし、そうした字面からだけでは伝わってこない「何か」を感じたくて、いよいよお会いする決心を固めたというわけだ。

先生は現在病気を抱えておられる。1日1時間起きているのが精一杯。それを無理やり押しかけていった私に、2時間もお付き合いしてくださった。




 話の中で、まず一番に語られたのは、誤診の多さについてである。

そして、その誤診の上に行われる薬物治療、しかも半端ではない多剤大量処方の問題。結果としての「医原病」……。

 このブログに寄せられた被害の話は、どれも同じ経過をたどっている。

「うつ病」にしたところで、誤診だらけ。

「100の例のうち、本物のうつ病は、1つくらいのもの」と聞いた時には、驚いた。そして、その1例には抗うつ薬も効果がある、と。

 だとしたら、残りの99は、何なのだ?

 うつ病でもないのに、抗うつ薬をバンバン飲まされ、そのうえ抗不安薬だの精神安定剤だの睡眠薬だのてんこ盛りの処方をされて、よくなるどころか、飲めば飲むほど悪化して……。

 うつ病ではないのだから、抗うつ薬の効果があるはずもない。




(以下は、笠先生との話の中から、私なりに解釈したものである。話は多岐にわたり、それらについてはこれからじょじょに書いていくことにします。)




 失恋したり、大切な人の死を経験したり、あるいは職を失ったりすれば、誰でも「うつ状態」になる。

 しかし、うつ状態とうつ病は違う。(それを、また「何とかうつ病」と新たな病名をつけて、どうしても「うつ病」にしたいらしいが)。

 また、精神科を受診する人の中には「生きづらさ」を感じている人が多いのではないか。

生きづらさとは、たとえば、何となく「みんな」と違う、「みんな」ができることが「普通」にできない、間が悪かったり、不器用だったり、遅かったり、一つのことへのこだわりが強かったり……他にもたくさんあると思うが、要するに、この社会をすいすいと泳いでいけないということだ。

結果、自分はダメ人間なんだ、何をやってみうまくいかない、あるいは対人関係で悩んだり、将来を悲観したり……。

 しかし、そういう「うつ状態」も、やはり「うつ病」とは別物だろう。

 気分が落ち込んだとき、頭の中ではセロトニンが不足している? だから、抗うつ薬でセロトニンを補給しましょう?

 そんなことで失恋の痛みや、死別の悲しみ、そして、「生きづらさ」が解消されるわけがない。

 それを、2週間気分が落ち込んだら、お医者さんに行きましょうと、うつ病を(わざと)拡大解釈し、抗うつ薬の適応範囲を広げてきた。その犠牲者たちが、このブログに体験談を寄せてくれたというわけだ。




 なぜ「生きづらさ」のことを書いたというと、「発達障害」という概念が頭にあったからである。

 笠医師というと「発達障害」という言葉と結びつく人も多いのではないだろうか。

 しかし、この「発達障害」、少しわかりにくいのと、「障害」とあるので誤解もされやすい。

「発達特性」という言い方もあり、私はこちらの方がぴったりくる。

 そして、非常に大ざっぱにいえば、濃度に違いはあるものの、たいていの人が「発達障害」的要素をもちあわせているのではないだろうか。(というと怒る人がいるかもしれない。「障害」という言葉が難しいのはここである。)

 しかし、「発達障害」を「発達特性」ととらえれば、人は人の数だけ成育歴や環境があるわけだから、その人その人、それぞれ「特性」は必ずあるはずである。

 要は「ユニーク」ということだろう。

ユニークには「唯一の」「独自の」「風変わり」といった意味がある。そして、この日本では「ユニーク」であるということはあまり歓迎されない。何でも右へならえの社会、画一的で、協調性が重んじられ、和を以って貴しとなす社会……。

多くの人は、自分のユニークさを何とか社会の尺度にあわせて生きている。あるいは、理解される環境や人がいて、問題化することが少ない。

しかし、そうでない人は、社会から突出し、結果としてつまずきやすい。

 岡本太郎や山下清のユニークさ。彼らは、時代や環境や人との出会いなどによって、芸術という分野でその「特性」を昇華させることができたが、そうした機会に恵まれず、「生きづらさ」を抱えたままの人は大勢いるはずだ。

 この「ユニークさ、発達特性」には、濃淡があるが(岡本太郎や山下清のように「濃」ではないものの)、その特性で生きられる環境や人との出会いなどがなければ、たとえ「淡」でも「生きづらさ」は同様だろう。


生きづらければ、当然、二次的なものとして、さまざまな症状が出てくる。それがうつ状態だったり、パニック発作や過呼吸だったり、あるいは幻聴、妄想だったりするわけだが、その出てきた症状のみを見て、「うつ病」「パニック障害」「統合失調症」などという診断(レッテル)をつけ、薬物治療が始まるという図式。

 ここには、本物の「うつ病」も「統合失調症」もありはしない。

 したがって、薬物治療はほとんどの場合、副作用しか経験しない……。


(笠医師の話を聞いていて、私はこれまで自分の中でもやもやとしていたものが整理されていくような気がした。まだ、完全に消化しきれていないので、いまはこのような表現しかできないが……。)

 

 笠医師の「セカンドオピニオン」で出た統合失調症の誤診率は92.3%という。

 うつ病は、先の例でいえば、99%。



 こうした数字や図式を見れば、精神薬による被害は出るべくして出ているのがよくわかる。


 何のための治療? 誰のための治療? かということだ。



 診療の鉄則

検査結果じゃなく、症状を診よう
症状じゃなく疾患を診断しよう
疾患じゃなく、人を診よう
目の前の人だけじゃなく、生育歴を、家族、学校、職場を
それのみならず、取り巻く社会構造を診よう

(毒舌セカンドオピニオン1より)




 しかも、現在、統合失調症など精神疾患の「早期発見、早期介入」が叫ばれている。この誤診率で「早期に介入」したら、子供たちはどうなるか。

 笠医師はそのことを非常に危惧している。

 10代の薬物治療の被害はこのブログでも数例あり、私としても、笠先生と思いは同じである。

「早期介入」に関しては、また、エントリを改めて考えていきたい。

 すでに被害は出ている。そして、現在、そのシステム導入の検討を進めている自治体もある。

 何とか食い止めたい……。

 しかし、笠医師いわく、「一対万くらいの割合で、分が悪い」。

 どうしてわからないのだろう。目はちゃんと開いているのだろうか。上記の言葉を「万」の人々に贈りたいが、それでも何も響かないのだろう……か。