医師が精神的苦痛を治療するために用いてきたものを歴史的に眺めてみると、アルコールにはじまり(1850年代)、アヘン、さらにはモルヒネやヘロイン、コカインまでもが処方されていた。

 アルコールを除くこれらの薬物は、どれも薬物中毒の治療にも使われるようになったが、後には、それ自体も中毒を引き起こすことが判明し、徐々に使用されなくなっていく。

 しかし、モルヒネにおいてさえ、治療薬として登場した当時は、「危険性はまったくない」という専門家の認識、お墨付きがあったのだ。

 そして、続いて登場したのが抱水クロラール(催眠、鎮静剤)、臭素化合物(ブロバリン)、バルビタールである。

 歴史は繰り返すと言わざるを得ないが、バルビタールも登場した当初(1903年)は、「まったく安全で毒性皆無」な薬と宣伝されていた。

しかし、半世紀後の1950年代の後半、ロンドンのガイ病院精神科医のリチャード・ハンターはバルビタール系薬物の依存について、次のように述べている。


「バルビタール系薬物で治療しようとした初めの病状は、治療しなくともいずれは軽快されたであろうが、薬剤の禁断によりこれらが再発したばかりでなく、一層悪化した。それ以後は、薬物は元の疾病を治療するためではなく、悪化する一方の禁断症状を緩和するために使われる。医師も患者も症状悪化の原因に気づかず、元の病気が悪化したと思うかもしれない。こうして薬剤を使っているうちに使用量が増え、禁断症状が重篤化するだけでなく、バルビタール中毒の症状も加わる。こうして、本来なら一度か二度の共感的な面接で良くなるような軽い精神症状が、深刻で遷延性の病気に変わってしまうのである。」(1957年)


 50年以上も前に書かれたこの文章の「バルビタール」を、例えば「抗うつ剤」に置き換えても、まったく同様のことが言えるのは、なんとも皮肉な感じがする。

 さらに、薬物の危険性を認識するのに時間がかかる理由もまた、今日よく見られる現象とほぼ同じなのだ。

 すなわち、

① 薬物による被害の証拠が集まっていなかった。被害の声が上がらないということは、安全であるという受け止め方である。

② 問題の証拠を探し求めることに対する抵抗があった。つまり、証拠が見つかることは、薬剤とそれを処方した医師の評判をひどく傷つけることになる。

③ 危険性を否定する意見がある種の説得力を持っていた。つまり、処方量が多いため、問題が起きたとしても、処方量に比べたら極めて稀である、という認識である。

④ 離脱症状を病気の再発と見間違えた。


こうした薬物の危険性を否定する理由は、いままさに、抗うつ剤(SSRI)において問題視されている点そのままである。


 バルビタールの後、1960年代になると、精神安定剤(ベンゾジアゼピン系薬物)がもてはやされるようになった。それはバルビタール系薬物が自殺と事故死の危険性をはらんでいるのに対して、ベンゾジアゼピン系薬物は過剰摂取時にも比較的安全であったからだ。

 ここでもまた「安全性」が強調されたが、結局のところ、その中毒性が問題となる。(日本では実際の処方の面ではいまだその認識に至っていないが)。

 しかし、欧米においてさえ、1980年代に至るまで、公式には精神安定剤で中毒になるのは、難しいと言われていたのだ。

 つまり、薬の登場から中毒性が認知されるまでに20年を要したことになる。そして、それについての対策が講じられるまでさらに10年という歳月が必要だった。


 歴史は繰り返すのだとしたら、新規抗うつ剤が登場したのが1990年代(日本ではほぼ10年遅れ)であるから、その危険性が認識されるまでに20年――ということは欧米ではいままさにその最中。そして、日本ではあと10年待たなければならないということだろうか。

 それとも歴史を裏切って、SSRIはこれからも独自の道を歩み続けるのだろうか。これまでの歴史が示す通り、「まったく安全な、夢の新薬」が発明されるまでは。

      参考文献「暴走するクスリ?」チャールズ・メダワー、アニタ・ハードン