学校の勉強が良くできると言う類の人たちを生み出す試験問題は、物事の本質を見極めるとか、物事の主従を判断すると言うような能力を試すものでは無く、どうでもよい細かな事の記憶を試すようなものが多いように思うのである。

本来的に、人間は、重要な事は記憶して、どうでもよい事は、忘れやすいと言う傾向にあるが、お勉強が良くできるタイプは、どうでもよい事も、重要な事も、同等の価値として記憶する傾向にあり、その主従の判別力が弱いのでは?と思う事が多いのである。

そもそも、自分の頭で考えるなどという訓練など、学校ではやらないのであり、逆に、権力者の言うことに従順に従うように訓練させられるのである。

声楽発声の現状を観てみれば、その実態がよくわかる。

大した声が出せる結果を残せているわけでも無いのに、揚げ足取り的な批判だけは、いっちょ前に言う輩たちを観てもわかるであろう。

根本的な所を無意識化して、枝葉の事に捕らわれ、ああでもないこうでもないと、こねくり回すものの、結果がついて来ないが、「結果を出せている」と思い込むのであろうか?

その多くが、言語至上主義的に、言語概念に捕らわれて、身動きが出来なく成っているように思うのである。

一見もっともらしく思えるが、よく考えてみると、偏った価値観に翻弄されて、偏った価値観を前提条件にして、本質を見失う人たちが、学校教育により、量産されてはいまいか?

例にすると、例えば「自由」と言う価値である。

この格差社会を生み出した大元は、この「自由」と言う、一見良さげな概念からである。

声楽発声においても、よく言われる概念であり、履き違えやすい。

私は、どんな有名な声楽家でも、日本人の歌声は、すぐに判る!
それは、声に統一感が欠如していると言う、マイナスの特徴から瞬間的に判別できる。

しかし、物事の主従をうやむやにすれば、「ここが優れている」などと、ある概念をクローズアップして称える人たちも居るであろう。

それが、「主従が判らぬ人たち」の感性と言えるのでは無かろうか?

まともな感性が、邪道扱いされ、おかしな偏見が正統であるとされる事は、閉ざされた社会では、当たり前に起こり得るのである。

そこに絡んでくるのが、権威主義である。

そのような洗脳教育により、抽象度低いインテリが量産されているのである!

学校教育に反逆児であった私が今までの人生で感じた事を述べてみた。

あしからず。