理のなき遺書11 | ユークリッド空間の音

理のなき遺書11

 タイル張りの壁に凭れ掛かった被害者の様子は、先刻と変わりない。
「これは?」
 雨宮が一歩前へと踏み出す。遺体のそばに、今までは気づかなかった小さな瓶とハンカチが落ちている。雨宮は手袋をはめた手でハンカチをゆっくりと持ち上げると、そうっと顔に近づけた。そして「うっ」という呻きとともに顔をしかめると、腕を伸ばして慌ててそれを遠ざけた。
「いつ嗅いでも慣れない匂いだ」
「何ですかそれは」
「たぶん、アルカロイド系の薬」
「麻酔薬ですか」
「即効性のね」
「それじゃあ……」
「奇妙だよ」雨宮が一転、表情を引き締める。「自殺者が麻酔薬を使うかね」
「自分が死ぬところを自分で見たくなかったんじゃあないですか。あるいは、痛い思いをしたくなかったか」
「即効性があるんだよ。嗅いでしまったら手首を切れない」
「じゃあ、手首を切ったあとで嗅いだのでは」
「手首を切ってしまえば、麻酔の効能も失血性ショックの効能も似たようなものと思うんだがね。つまり、麻酔薬を使う必然性はないんだよ」
「それじゃあ」
「これは他殺である可能性が出てきたということだ」
「しかし……」
 真野は当惑した。
 現場での事実を突き合わせると、他殺説が有力になるが、真野はもうひとつの現実を見てきたばかりなのだ。すなわち、リビングにある仲川本人のものと思われるサイン入りの遺書である。
「わかっている」雨宮は言った。「問題は多々あるが、ひとつひとつ片づけていこう。遺書に書かれてあった殺人・死体遺棄事件は実在しているのか。仲川が自殺であれば、なぜ麻酔薬を用いたのか。遺書に記されているサインの筆跡は本当に仲川のものなのか。かりにこれが他殺でサインが仲川本人のものであれば、犯人は誰なのか。そしてどうやって仲川の筆跡を入手したのか」
 問題点を挙げるだけで眩暈がしそうである。
「まずは日下部理子なる人物が本当に失踪しているかを確認してから、T市X号線沿いの標識のある場所を捜索する。われわれは仲川の勤めていた会社、それから徳長という探偵に当たる。わたしが思うに、徳長は今回の事件でキーとなる人物だ」

 


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