下り列車は平磯駅で私を拾い、終着駅に向けて出発した。
先ほど下車した磯崎駅を過ぎると、左へ右へ緩やかにカーブを続けながら、車窓は住宅街、雑木林、芋畑と、短い区間の中で目まぐるしく変化していく。
そして14時17分
列車は徐々にスピードダウンしながら、プラットホームに入線し、停車した。
ここが終点、
「阿字ヶ浦(あじがうら)駅」
駅名標は、ひたちなか市を代表する海の幸アンコウをはじめ、漁に関するデザインが施されている。
ホームに降りてまず目に入るのは、非常に長いホーム。
これはかつての国鉄時代、駅から歩いて5分程度の位置にある、阿字ヶ浦海水浴場に訪れる人達の為に、上野から直通で急行列車が乗り入れていた時期があり、その名残であるとの事だ。
現在はホームの途中に仕切りが立てられていて、長いホームの端まで行くことは不可能である。
そしてホームの列車が停止する位置だけ、改修が行われている。
ホームの向こう側に車止めがあり、その後ろには枕木が積み上げられている。
ホームは島式で2本の線路に挟まれているが、そのうち1本は使用されていないようだ。
さらにそれとは別に留置線も敷かれているが、それも使用されなくなってかなりの時間が経っているようだ。
ホームから、新しく設置されたのが一目でわかるバリアフリーのスロープを下り、使われていない線路を跨いで駅の外に出てみる。
駅前にはバス停があり、駅周辺には民家が点在する。
しかし、この駅も非常に静かな印象だ。
駅舎も木造で、良い雰囲気を醸し出している。
何よりも、駅舎に掲げられた鄙びた駅名標が何とも言えない味わいを与えてくれる。
曇り空も相まって、言葉にできない、心地よい哀愁感に浸ることができた。
現在は無人駅だが、かつては有人駅らしく、窓口の跡がかなり綺麗な状態で残っている。
さらに駅の事務室は、運転手の休憩所代わりに今も使われているらしい。
駅に到着してから30分足らずで、列車は勝田方面へ折り返してしまう。
もう少しこの終着駅の雰囲気を味わっていたかったが、仕方なく引き上げることにした。
これにて今回の旅の目的は達成された。
ひたちなか海浜鉄道湊線を完乗、並びに全駅下車を達成した上での総評だが、
まずは湊線の歴史に触れなければならないだろう。
湊線は、大正初期には開業され、昭和初期には現在の勝田~阿字ヶ浦間が全通となった。
昭和19年には、茨城交通がこの湊線の運営を開始し、長い間親しまれ続けてきた路線だが平成20年、経営不振により廃線が決定。
しかし地元住民や湊線ファンの廃線反対の熱い声により、湊線は存続されることになる。
運営はひたちなか海浜鉄道に譲渡され、湊線は新たな船出を迎えた。
そんな矢先、2011年3月11日の東日本大震災により、路線は被災してしまう。
あの田園の中に真っ直ぐ伸びた線路は、地震によって至る所でひん曲げられてしまった。
バラストが広範囲にわたり崩れ落ち、線路が宙に浮いてしまった箇所もあった。
路線は甚大な被害を受け、運行休止を余儀なくされてしまう。
しかし、ここでも地元住民や社員は諦めなかった。
熱心な復旧工事が進められ、7月23日、見事に全線復旧を成し遂げたのである。
湊線は、三陸鉄道や気仙沼線、大船渡線等と比較すれば、被害は微々たるものだったかもしれない。
しかし、被災して真っ先に復興を成し遂げた路線であることは間違いないのである。
今まで決定的な廃線の危機を迎え、その度その危機を乗り越えてきた路線である。
山陰本線が「偉大なるローカル路線」と称されるのであれば、
私はこの湊線を、地元に愛され続ける「奇跡のローカル路線」と称したい。
今でも私の脳裏には、那珂湊駅で唄を披露する年輩シンガーの後ろに掲げられていた、「ガンバレ!湊線」の横断幕の文字
そして、殿山駅のフクロウのモニュメントの袂に掲げられた「ありがとう湊線」の文字が残り続けている。
そんなひたちなか海浜鉄道も、今年で発足5周年、湊線としては、開業百周年を迎える。
これから何十年も、地元住民に愛されながら、ひたちなか市を走り続けて欲しいと願うばかりである。
また中根でのんびりした時間を過ごし、那珂湊で海の幸を食べに訪れたいものである。
湊線に再び乗車しに来る事を約束して、ひたちなか市を後にした。