僕の事。2 
 | 夢が毛利毛利

僕の事。2 


こんばんわ。
昨日、長々と書いたのですが、思いの外自己顕示欲が強くてまだ続きます。
ちょっと海外の自己啓発セミナーで自分の事語るみたいなアレになってますが、
今の僕には必要みたいです。どうかお付き合いください。
暗い話とか、トラウマは全然ないので!

今日は僕の音楽履歴を語らせてください。
僕が今やりたいことを説明するに必要だと感じたので。
ほんと長いけど、5歳から20歳まで書いちゃうので。
もうこの際諦めて、いまだけ俺の事みてちょ。

母親がピアノやってたんです。
父親がギターとかベース弾いてました。
小さい頃に、うちで母がピアノ教室始めました。
いきなり脱線するけど、子供ってみんな間違うところ一緒で。
ピアノとふすまで挟んだ部屋で静かにお絵描きしながら、
必ず間違える場所が来るたびに緊張して待つと、やっぱり間違えるわけ。
もうイライラするわけですよ。なんで練習してこないんだよ!って。
脱線脱線。

たぶん、母が一緒に演奏したかったんだと推測してますが、
5歳の時にバイオリンを勧められて始めたんです。
僕もよくわかってないけど、始めました。
スズキメソードの品川支部。戸越3丁目の教室です。

当時の演奏、聞いてないからどのぐらいできたかは定かじゃないけど、
(カセットどっかにあるんだよなぁ、、、、)
母もそれなりにスパルタで、出かける時にカセット録音されてたりして
いやいややってました。こわい先生も苦手で。
ぼく、さっきあんな事書いといて、練習が好きじゃなかったです、エヘ。
効率の良い練習とかは考えるんですが。
プレイヤー向きじゃないんですね、もともと。

そこそこやってましたが、大会みたいのですごい人みちゃうと、
もう、少し心折れましたね。 あ、ぼく天才じゃないな、って。
でスズキメソード7巻の途中までやって、やめました。
それからしばらくやめてたんだけど、地元にすんでる先生に個人で習いだしたんです。
小6の時。 すごく良い先生でぼくのダメなとこわかってて、
うまくしかってくれるんだけど、教則本がバルトークとかになって、
もっとつまらないの。メロディとかよくわかんなくて。
でも、やめても特技がなくなっちゃうのが嫌で。
体小さいし、ケンカ弱いし。
中学入ったらブラスバンドやりたいなて思ってました。

で、中学生になったんです。
ブラスバンド部覗きに行こうとしたんですが、
最初の音楽の授業で、先生がすごく苦手だという事に気づいてしまいました。
あと、ずっと音楽やってきて、これから始める人と一緒にやる事に抵抗がありました。
そう、プライドだけの塊です。やなやつです。

というわけで、学校内のブラスはあきらめて、
学校の外で、アマチュアの品川区民オーケストラに入って、
バイオリンをなんとなく続けました。
お姉さん達が優しくしてくれて~~~
許してくれるっていいね!
オーケストラを経験できたのはやはり今に生きてると思います。
この頃には練習したくない代わりに、
テレビつけたりレコードかけながら
きこえてくるものをマネして弾く癖がつきました。
歌謡曲、アニソンでメロディ以外のなってる楽器を
コピーする事が楽しくてしょうがなかったです。
この時に和声とかやっておくべきだったんでしょうが後の祭りw
とにかく全て単音で物事を捉えつつ、フレーズ解析してました。
オーケストラだから、全部が一人一人のメロディって捉え方だったんですよね。

そうこうしているうちに、
うちには父のベースとギターが置いてあります。
ドラムセットもあったんです(うるさいからたたいちゃいけないw)
で、バイオリンじゃないものも弾いてみたくなってきて。
あ、ピアノはダメです。弾くと絶対母とケンカになっちゃうんです。
もうピアノはほんと苦手意識がいまだ抜けませんw
で、ベースなんてバイオリンに似てるから弾けると思って。
案の定、右手の指の豆ができたぐらいで、まぁまぁ弾けました。
ドラムもやりたくて、椅子を叩いて練習してました。
この頃、オタク全盛期だったので、当時のアニソンで練習しました。
速い8ビートなら、マスクマンのエンディングです。「愛のソルジャー」。
バンドブームでしたけど、あまり 聞かなかったです。かっこいいのが別世界に思えて。
あ、なにより一番の衝撃は PRINCESS PRINCESS  で、これはほんと驚いて
必死で練習しましたが、全然同じにならなくて、ギターとか
カセットに同時で録音するんだけど同じこと弾いてるのに全然違くて。
音符をコピーできてれば良いわけじゃないんだということが
エレキでもよくわかってきた頃です。
徐々にバイオリンは弾かなくなりました。

高校生になりました。 駒込にある 聖学院という高校です。
すこし地元から離れたかったんです。
バンドがやりたくてすぐに色々声かけて始めました。
やはりドラム叩けるのは重宝されて、ドラムやることが増えて
だんだん夢中になりました。
Zeppelin から洋楽に入って、ヘヴィメタが好きになっていって、
そういうバンドをやることが増えました。
初めてツインペダルを買った日は嬉しかった。。。。

その頃、学内で出会いがありました。
小松亮太 という男です。
背格好がぼくに似ていて、バンドメンバーを探してるといいます。
彼は、バンドネオンという楽器をやっていて
タンゴという音楽をやっているそうです。
は?たんごぉ~、、、って感じです。
黒猫? あばれはっちゃく????
です。
なんにせよ譜面が読めて楽器が弾けるということで
さそわれました。
最初バイオリンを頼まれましたが、無理。
やってみたけど全然無理、弾けない。ってことで
エレキでよければベースを弾くよってことで、
小松くんのタンゴバンドを手伝うことになりました。
彼は中2からバンドネオンはじめて、同年代とバンドを
やったことがないということで気合入っていて、
夏休みは泊りがけで練習したり、ずいぶんぼくは鍛えられました。
小松の父上、勝さんや亡くなられた松永孝義さんの演奏を参考にさせていただいて。
今ぼくがあるのは、間違いなく小松くんのおかげでもあります。
高校2年生ではじめて、旅にも出て、演奏でお金をもらうことができたときは
すごい大人な世界だ!と内心感動しました。

こうして高校の時は、ヘヴィメタバンド、タンゴバンド、
あとエースをねらえに感化されてテニス部にいました。
男子校ですが。
まぁでも基本だらだらしてました。

そのうち高2の冬にもなると進路を選ぶ時がきます。
タンゴ本気でやるために、ウッドベース始めるのもいいな、とか
甘い考えもありましたが、ドラムが好きでした。
しかしそこはプライドの塊。
どうせなら、音大ぐらい行かねばと思ったのです。
ちなみに、ぼくでかい音で叩くことしか考えてなくて、
二つ打ちもしりませんでした。。。。
ゴーストノートなんて俺にはリアルゴーストです。
まったくいい気なものです。
ココだ!ってとこに、2と4が入ればいいとしか考えてなかった。
ひどい落差です。

で、学校の先生から音大の打楽器科でた方を紹介していただき、
はじめて打楽器の練習を始めました。
いやね、座って叩くと思ったものを立って、しかも足使わないで手だけで演奏とかマジ無理。
全然リズム取れないの。なにより手が動かないし。下手すぎて。
で練習きらいじゃないですか。
まぁ、上達しなくてね。

浪人しましたよ。。。。
お父さんお母さん、ほんとにすみませんでした。

で、浪人中とかも、みんな凄まじいの。
あ、ちなみに打楽器は楽器の特性上なのか
集団レッスンすることもよくあって、
だいたい受験生みんな顔馴染みになるの。
で火花ちらしてみんなすごい形相で練習してて。

あ、こりゃぁダメだ、と思っちゃった。
もう気持ち負けちゃって。

で、結局浪人中もダラダラして、
最後に洗足学園の当時まだあった短期大学部の打楽器科に滑り止めで入学しましてね。
これ、言っちゃうけど、24人受験して24人合格ですよw
ほんと助かりました。前田さんありがとう僕に居場所をくれて。
で、大学中覚えたことは、、、
酒。
酒ばっか飲んでた。。。
練習、、、あまりしなかった。。。
けど、いろんな楽器みれたのは確かに良かった。
副科で声楽やれたのも良かった。
まぁ一応、2年いたから少しはドラム上手くなったけど。

この時に、今もラクライ一緒にやってる赤間慎に出会って。
もうガツーン!てやられちゃったの。
自分が絶対できないドラム叩いてる!って。
で、あぁドラムもダメだなって、すぐぼんやり思いながら
酒ばっかり呑んでました。
人と比べるのは意味がない!って言える人になりたいです。。。
そうこうして2年が経って、4年制に編入って話もあったんだけど、、、
まだまだ逃げたい僕は、留学でもしようかなって(誰の金だよ!まったく)。
ほんでもって2年で卒業することにしたんです。
この時まもなく21歳。
僕に転機が訪れます。

長い!!!
ここまで書いて僕はスッキリしましたが、
そのあと色々あって今の仕事について
あっという間の20年です。
この続きは知りたい人がいれば、、、、

とりあえず、僕はこうやって音楽を続けてきました。
おおよそほとんど逃げ道だった気もしますが、音楽しかやってないっちゃぁやってない。
悪い事もできないし、遊びにもいかないし、女の子は緊張しちゃうし、喧嘩なぞももってのほかだし、勉強も好きじゃないし。


音楽で生きていける場所に置かせてもらい20年経って
色々覚えて、できる事も仲間もふえてきて。
ここにきてようやく、逃げなくても楽しんで向き合える気がしてきたので、

ようやく重い腰が上がったというわけです。


若いうちに作る音楽だけがポップスじゃない。
経験や技術は、音楽の感情を失う事じゃぁない。
ただ瞬間で消費されるようなものではなく、
リスナーの年齢の変化とともに出会える音楽は増やせないか。
せっかくの定額制やYouTubeでこんなにたくさんの音楽が選べるなら、
そういう音楽の楽しみをもっと生活の近くにそっと置けないか。
僕らはそういう音楽を提供、紹介できないだろうか、、、、
Zelig works で僕がやりたい事です。

その為の、プロデュース、アレンジ、マニピュレートをしたい。

本当に長くなりましたが、まだ具体的になにができるかも
明確ではありません。

ただ居心地の良いコミュニティーになれば、とは思うのです。

皆様の意見なども伺いつつ、
まずは、いま製作中のアーティスト、プレイリストを
9月にお届けいたします。

今日は、ただ僕の自己発見に付き合ってもらうだけの長文になってしまいました。
最後まで、読んでくれてありがとうございます。

Zelig works 毛利泰士