The Prison Chronicle ~リアルタイム刑務所日記~ -2ページ目

その8≪新法の執行と工場への配役≫

 本格的な懲役としての生活が始まってから、およそ1ヶ月半が経過した。

この間の私とその周囲は、少し慌しかったような気がする。

その最たる理由は新法の改正である。

明治時代より続いてきた「監獄法」が廃止となり「受刑者処遇方」という新法が執行されたのだ。

一応これは歴史的な瞬間と言えるだろう。


 改正された内容を全て書くのは不可能なので、ここではかい摘まむが、今回の改正でまず一番に上げられるのは、手紙と面会の制限の緩和についてだろう。

 今までは三親等(一親等は親子、二親等は兄弟、三親等は従兄弟等の親類)以内としかやり取りは許可されず、回数も入所して間も無い受刑者は手紙面会共に月一回のみだったのだが、新法下ではやり取りは誰とでも可能(建前上ヤクザは×)となり、回数も私の場合は、手紙が月5通、面会は月2回となった。

 私の場合、と書いたのには理由が有るのだが、受刑者は行状によって優遇のランクが区分されているのである。

 この区分される基準についても新法では変わってしまったのだが、ややこしいので今回は詳述しない。

 要は更生する意欲の有無によって処遇の内容が変わってくるのだ。どのランクに区分されるかは、半年に一度審査会が開かれその都度決められる。

 私は此処へ来て間も無いので、次の審査会が行われるまでは暫定的に現在の処遇下に置かれているという訳だ。

 当然今後の努力次第でまだまだ優遇される可能性は有る。

 それから、私にとって実に喜ばしかった改正の内容は、私本の冊数制限の緩和である。

 今までは居室内に持ち込める私本の冊数は、辞典などの特別図書を除いて3冊のみだったのだが、新法下では無制限である。

 厳密に言えば上限はあるのだが、それは、60リットルの容量のバッグをそれぞれが貸与され、その中に入る範囲で所持しなさい、というものだ。

 そんなに大量の本を一度に読める筈もないので、これは無制限と一緒なのである。

今のところ私の身辺で目立った変化といえばこんなところである。

とうよりも、私は受刑者生活が初めての経験なので、以前との違いについて正味のところ実感が無いのであるが、何にせよ処遇が緩和されるという事は我々受刑者にとってなによりである。


 話は変わるが、此処へ来てからの最初の一ヶ月間、私は新入教育というものを受けていた。

 これは何かというと、刑務所側は新入受刑者を所内の何処かの工場に配役しなければならねい為、この間に身分帳を作成したり、一般常識などのテストを受けさせたりして個人の適性を計るのである。

 その後に配役審査会というのが開かれ、お偉方との面会を経て初めて工場に配役されるのだが、このお偉方10人位に取り囲まれて行われる面接に私は少々砰易してしまった。

 何せ、質問してくる内容の殆どは作業と関係の無いものばかりなのである。

 その内容はこうだ、「覚醒剤はやったことあるのか?」とか「(ヤクザ同士の)娑婆からのメモ事を持ち込んだりしないだろうな?」とか「真面目にやってる人が沢山居るんだから、そういう人の邪魔は絶対にするなよ!!」etc,,,,,

 私の施設内での生活態度は、極めて真面目で温厚だという自負がある。

 そんな私と初めて言葉を交わしたにもかかわらず、頭ごなしに悪人と決めつけるかの様な物言いをされるのは一体どういうことなのだろうか?

 遺憾だ!!

 私の身分帳にはどんなことが書かれているのかとても心配である。

 そんな訳で、どんな基準で審査されたのかは一切不明なのであるが、結局私は洋裁工場に落とされた。

 だから今はミシンを使って作業をしている。(勿論全くの未経験)

 はっきり言って作業の内容なんかは何でも良い、私はそう考えている。

 与えられた役割を全うしようという気概は常に持ち合わせているからだ。

 しかし、そうした努力はきちんと反映されるのだろうか?

 まだこの刑務所の実情が見えていない為、少々の不安は拭いきれていない。

 私の残刑は14年以上だが、外で私を待っているものは非常に大きいので、期待に応える為の努力は厭わず生きていこうとココロに決めている。

 そんな私にこの先この刑務所は何を見せてくれるのだろうか。

 あまり期待はしていないが正直気になるところではある。


その7≪玉検と移送≫

 4月25日の午後、いつもの様に分類センター2階の5室で作業をしていると、不意に監房の扉が開錠された。

 扉を開けたオヤジ(刑務官の別称)は真顔で私を見据えると、「作業中によそ見をしたので取り調べの為連行!!」と宣ったが、オヤジの本当の用件が″玉検(たまけん)″であることはお見通しである。

 何故なら、私はこの瞬間をここ数ヶ月の間待ちに待っていたからに他ならない。

「お待ちしてましたよ」私はそう言って廊下に出ると、

「左向け左!!小走り前へ進め!!」の号令と共に″玉検″をする小部屋へと向かったのだった。


 さて、この耳慣れない″玉検″という単語なのだが、おそらく刑務所に入ったことのある人じゃなければ理解不能だと思うので、軽く説明しておこう。

 これは文字通り玉の検査なのだが、具体的に言うと、「サオに玉を入れたりしていないか」パンツを下ろしてチェックされるのである。

 意味が解るだろうか??

 要はサオをカスタムしていないかということだ。

 通常、外の世界では○○クリニックとかいう所に行って、シリコンボールを入れてもらったりするアレである。

 勿論、刑務所内にはシリコンボールなどという気の利いた物は存在する筈もないので、玉入れをする方々は主に歯ブラシや碁石で代用しているらしい。

 私は未だそういった場面に一度も遭遇していないので、聞いた話しでしかないのだが、どうやら歯ブラシの柄の部分や碁石をコンクリートの壁や床にひたすら擦りつけ、丸くなってきたら歯磨き粉など(研磨剤の一種なので)を使って更に磨きをかけ、お好みの大きさに仕上がったら、これまた壁や床で擦るか、鉛筆削りなどで先を尖らせた箸などを使って、サオの薄い皮に小さな穴を開け、そこから中に玉を入れてしまうのだそうだ。

 そして更に、歯が痛いなどと仮病を使って不正にゲットした抗生物質を飲めば、傷口の化膿も防げるというわけだ。

 一体何で刑務所内でこんな事をしてしまうのか私には理解できないのだが、実際にしてしまう人が存在するので玉検は実施されるのである。(ちなみに、施設に入る前からカスタムされている人については不問だが、新たにカスタムをした事が発覚すれば、これは規律違反行為なので、ほぼ例外無く懲罰の対象となる)

 

 そんな訳で当然の如く玉検にパスした私だが、何もサオを検査される事を待ち望んでいたのではない。

 玉検をされるということは、同時に移送を意味するのである。

 私はそれを待ち望んでいたのだ。

 そして翌日の朝、半年以上生活した多少なりとも愛着のある部屋と同居人達に別れを告げ、″移送部屋″と呼ばれるいそうされる人のみが入れられる部屋に連れて行かれ、そこで一晩を過ごすこととなった。

「いよいよ俺も移送かぁ・・・」と、気持ちはやや高ぶっていたものの、その時点で私にはちょっと気になることがあった。

 移送といえば、交通費などのコストが掛かる為、数人をまとめて移送する筈なのだが、移送部屋は10人用の部屋にもかかわらず中には何故か私一人なのである。

 この事に多少の不安はあったものの、数分もするといつもの如く「考えたところでどうにかなるものではない」という刑務所内ならではの理屈で納得した私は、部屋に置かれていた数冊の本を読破することにその日の全てを費やそうと気持ちを切り替えた。

 お陰で夜はぐっすり眠れたのだが、翌朝、つまり4月27日の朝はおそらく6時半だったと思うが、扉をガンガン叩かれて起こされると、その5分後位には早くも部屋から放り出され、移送先の言い渡しが行われる部屋へと連れて行かれた。

 移送の際は私服の着用が許されているので、約7ヶ月ぶりの私服に着替えていると、スーツ姿のオヤジが3人私の前に現れた。

 私が居住まいを正すや否や、その中の比較的若く見えるオヤジが、

「気を付け!!礼!!直れ!!」と、号令を掛ける。

 この後に発せられる言葉が、昨日からの私の疑問を解決してくれたのではあるが・・・・・。

「あなたは、これから徳島刑務所へ移送となります」と、キャリア風のオヤジが山の手口調でこう告げたのである。

 眠たかった私の頭は一瞬にして覚醒し、私は内面のみで動揺していた。

 何せ行き先は四国なのである。

 しかもJB(その2参照)だという。

 こんなに遠くに移送される受刑者は、おそらく全体の一割にも満たないのではないだろうか??

 だから私は一人だったのである。

 私の管区は東北だったので、遠くてもせいぜい北海道か関東ぐらいだろうと決めてかかっていたのだが、その私の予想は、大幅に覆されてしまった。

 きっとこれには事件の内容が深く関係しているのだと思われる。

という訳で、その日は約9時間を掛けての大移動となったのである。

 まずは、東北新幹線に乗り、東京で東海道新幹線へと乗り継ぎ、そして岡山駅からは快速線で瀬戸大橋を渡り、高松でまたも乗換えをして・・・。

 ちんみに私はこの間の全てを手錠を掛けられた状態(手錠から伸びた縄は腰に回され後ろで握られている)で、一般の客席に座らされていたのである。

 普段、日光に当たる機会が殆ど無かった私の肌は青白い色をしているし、髪型は中途半端に伸びた坊主頭だ。

 そして、私服姿の私に対し、周りにはスーツを着込んだ3人の男が常に目を光らせ、手首には手錠が掛かっているのだから、これでは誰が見たって一目瞭然ではないか!!

 ちなみに、トイレに行くにもこの3人は私の側から決して離れてくれないし(当然か)、大便の時も手錠は片方しか外してくれなかった。(したがって扉は少し開いていた)

 相中で十数人は私の異様に気付き、驚いた顔をしていたが、私と目が合うと皆すぐに目を逸らしてしまう。

 ちょっとだけ心の中には冷たい風が吹いたが、逆に良かった事もあった。

 刑務所での暮らしがそうさせたのだろうが、久しぶりに目にした世の中はすばらしく新鮮な眺めだった。

 私は一日も早い社会復帰を心より誓うことが出来た。


 夕方になり漸く目的地に到着すると、今度は入所手続きである。

 前の施設で着ていたのと全く同じ素材の服に着替えると、自分の称呼番号(要はID番号なのだが、桁数の違いなどである程度の刑期は識別が可能であり、受刑者には出所するまで同じ番号が付きまとう)が書かれた札を持たされ、正面と横顔からの写真を撮られる。

 その後にお仕着せの健康診断を済ませれば、舎房へと連れて行かれ入所は完了となる。

 こうして、約半日掛かりの長旅ではあったが、私は無事に新天地での生活をスタートさせたのであった。


 末筆になってしまったのだが、書いておかねばならない事がある。

 それは私がこのThe Prison Chronicleをどの様にしてUPしているのか、という点である。

 現行の監獄法では残念ながら受刑者が外部の第三者と接触することは認められていない。

 現状では、受刑者は親族とのみしかやりとりが出来ず、今の私に許されているのは、月に一度の面会と、月に一度の発信のみである。

 したがって、私はThe Prison Chronicleに書きたい内容を毎月手紙に認め、それを受け取った私の細君がUPしてくれているという訳だ。

 持論ではUPすること自体はやりとりではない。

 しかし、コメントに対する返事を書くとなると話しは別なのである。

 手紙は必ず検閲されるので、発覚すれば発信が許可されなくなる可能性がある。

 それでは本末転倒だ。

 だから、その点についてはどうかご理解を頂きたいのである。

 その代わり、頂いたコメントについては、細君がそのまま手紙に書いて送ってくれるので、全て有り難く読ませてもらっている。

 只でさえ閉塞されたこの状況下で、暖かい言葉を頂けるとというのは、「書いてて良かった」と最も強く感じられる瞬間である。

 この場を借りてお礼を申し上げたい。

 それから、現行の監獄法だが、5月24日から新法が執行される為廃止になるそうだ。

 これについては次回詳述しようと思うが、上手く緩和されれば、コメントに対する返事も可能になるだろう。

 こんな手前勝手なブログではあるが、これからも読んで頂ければ幸いである。


 

その6≪刑務所ヤクザ≫

 雑居房で生活を始めてそろそろ7ヶ月目に突入しようとしている。

現在の部屋の人員は5人となっているが、この6ヶ月の間に私以外の人達はどんどん入れ替わってしまったので、私は既に13人の他人と生活を共にしてきた。

以前にも少し記述したのだが、現在私が居る施設というのは”分類センター”といって、「今回の刑を執行するにあたって最適な刑務所は何処か」ということを決定する場所である。

したがって、通常であれば受刑者はこの施設を2~3ヶ月程度で通過し、日本中の何処かの刑務所へ移送されるのである。

私以外の受刑者は懲罰にでもならない限り通常の流れでどんどん移送されて行くのだが、どういう訳か私は6ヶ月目を経過したにもかかわらず取り残されている。

自分で言うのもなんだが、私の生活態度はかなり真面目なので、引き延ばされる理由など何も無い筈なのだが、これは一体どういう事なのだろうか・・・。

真意の程は今以って全く不明である。

まぁ、私が悩んだところでどうにかなる様な問題ではないので考えるだけ無駄なのだが、現在この施設で生活している受刑者の中でわたしがかなりの古株であることは間違い無いだろう。

 ちょっと話が逸れてしまったので元に戻すが、私と以前同部屋だった連中の殆どは移送の為この部屋から無事に巣立って行ったのだが、この部屋から出て行った内の約2名程は、この部屋に来てから約1ヶ月足らずでそれぞれ独居へ転房する為にこの部屋から出て行ったのである。

どういう事なのかというと、それは彼等が何を隠そう『刑務所ヤクザ』だったからなのだ。

 考えてみれば刑務所の雑居房というのはすごい環境である。

何せ今迄に一度も会ったことの無い正体不明の数人と決められた日から決められた部屋で生活しなければならないからだ。

その為、人間関係を円滑な状態で保つことはなかなかに難しい。

そして、これはどの世界でも一緒だと思うのだが、対人関係というのはやはり最初がとても肝心なのである。

大概の人はそれを心得ているようで、雑居房に入室した初日ともなれば、十中八九見栄の張り合いが繰り広げられる。

この光景を傍から眺めていると実に滑稽なのであるが、これはオスの本能とでも言うべきか、殆どの人が互いの力関係をはっきりさせたがるのだ。

そしてその際に、個人を計る判断材料となる主なものは、今回の事件の内容、刑期の長さ、それから娑婆では何をやっていたのか、などである。

3つめに書いた娑婆では何をやっていたのか、というのが重要なポイントなのだが、前述通り互いに面識は一切無く、相手の正体は不明なのであるから嘘が言い放題なのである。

これは私の勝手な推測なのだが、自分を若干誇張させるという行為は殆どの人がしているのではないだろうか?ちなみに私もご多分に漏れずその内の一人である。

だが、中には自分の正体が知られていないのをいいことに大嘘をぶっこいている輩が存在している。

その最も典型的な例は、自分をヤクザ者に仕立て上げるというものだ。

一般的にヤクザといえば粗暴なイメージが強いと思うのだが、彼らはそこに付け込もうとするのだろう。

しかし、こういった大嘘をつく連中というのは世間知らずが多く、安易な考え方の持ち主だったりするのだ。

だから本人だけがバレないと思っている節がある。

まぁ、正体がはっきりする迄は確かにその嘘が多少の効果を発揮しているので、等身大の何割増しかに見えたりもするのだが、そんなくだらない嘘でしか自分を誇示出来ない奴は中身が伴っていないので結局のところ通用しないのである。

彼等は刑務所の中に居る時だけ突如としてヤクザ者に変身してしまうので、『刑務所ヤクザ』と呼ばれてしまうのだ。

自分で自分の首を絞めるというのはまさにこの事で、メッキが剥がれてしまった後は惨めなものである。

嘘がバレてしまったお陰でこの上無く都合が悪いというのに、雑居房に居る限りは24時間どこにも逃げ場は無いのだ。

但し、オヤジ(担当職員のこと)に面接を願い出て、「苛められた」だとか上手い事を言えば独居房への転房は可能なのである。

先に書いた独居に転房していった2人というのはどちらもかなりの嘘つきであった。

その為、嘘がバレる度に自分の居場所が少しずつ狭くなり、ついにはこっそりとオヤジに面接をかけ部屋から消えていったのである。

 刑務所というのは社会に復帰させるのが目的なのであるから、協調性が第一に問われるのである。

だから他人と上手くやっていけないというのは致命的なのだ。

私が思うに人生というものはブーメランに似ている。

いい加減な事ばかりしていれば必ずしっぺ返しを食らうし、辛い事を我慢してやっていれば必ず良いことが起こる。

自分の投げた物がそのまま返ってくるのである。

これは今迄の経験上からまず間違い無いと言えるのだが、更に私から言わせて貰うとこの刑務所の雑居房というもそれと全く同じで、そのまま社会の縮図なのである。

だからその辺りを意識しなければ上手くやっていけないのではないだろうか。

少なくとも私はそう考えている。

この先十数年はこの様な環境で生活をしなければならないので、その間様々な犯罪者と出会うのだろうが、今回書いたような手合いとは余り出会いたくないものである。

今後も一風変わった人がいたら書いてみようとは思っているが、それは変わった人と生活をしなければならない事を意味するので、ちょっとだけ複雑な気分である。

その5≪便所掃除について≫

 まずは前回の補足として書いておくが、私は件の非常に痒い菌を死滅させることに成功した。だが、一時この菌は勢力範囲を股の方まで拡大し続け、痒みにプラスして痛みも伴うようになっていたのである。

一応、薬は毎日塗っていたのだが、最初に支給された薬というのは何の説明書きも書かれていない透明な袋に勝手に小分けされた様な代物で、中身ははっきり言って正体不明ねのである。

この薬が余りにも効果を為さないので、医者に懇願したところ、私の股の惨状を見てさすがに可哀相に思ったのか、今度はちゃんとしたチューブに入った抗菌剤とかかれたのをくれた。

私は早速その晩からこの薬を塗り始めたところ、一週間もしないうちに今迄の悪夢が嘘だったかの様に、あっさりと治ってしまったのだった。

まぁ、治ってしまった後なので今更怒る気も起きないのだが、最初の薬は一体何だったのだろうか・・・。

私の今回の体験から言わせてもらうと、この施設の医者はギリギリまで手を差し伸べてはくれないということだ。嘘や仮病で薬をせしめようとする輩が後を絶たないのでおそらくこうなってしまったのだろうが、本当に具合が悪いのにもかかわらずこういった対応をされてしまうのは受刑者にとってとても辛いことである。自分の意志で病院にも行けず、それどころか一つの部屋から一歩たりとも出ることを許されていない我々に出来る事といえば、鉄格子付きの窓越しにお願いするしかないのだから・・・。


 さて、話は変わって今回は此処での便所掃除について知っていただきたい。

まずは便所の形状について触れておくが、我が雑居房の便所はというと、窓や換気扇が一切備わっていない和式である。ちなみに便所は部屋の角に設置されているのだが、便所内でおかしな事が出来ないようにする為か、部屋の内側に面した壁はガラス張りになっているので中は常に丸見えである。

まぁ、丸見えと言っても多少の気遣いはされており、腰の高さ位までは壁でできているので、大きい方をする際に便座にしゃがめば、している様子は外から見えなくなる。(勿論、近寄れば全てが見えてしまうのだが) このなかなか乙な気分が味わえる便所は先にも書いたように、喚起をする設備が全く無いので湿気や臭いなどがそのまま残ってしまうのである。

だからといって扉を開け放っておけば、居室内が悪臭に見舞われてしまうので、閉めておくしかない。

したがって、便所内の空気がゆっくりと悪臭を分解してくれるのを待つことになる。

おそらくこの閉めきった状態が原因と思われるのだが、便所内に発生する結露はちょっと黄色くなっていたりするのだ・・・。

この素敵な便所を毎日交代で朝・夕と掃除をするのだが、それにあたって此処の施設ではちょっとした不文律が存在している。

それは何かというと、素手の状態で便器内の水を使って雑巾をゆすぎ、その雑巾一枚で陰毛やらこびりついた汚れを全て落とさなければならないのである。

『便所の水は汚い』という先入観もかなり手伝ってくれるので、雑居に来て五ヶ月が経過した現在でもこれだけは決して慣れることが無いのである。

掃除の直後に何度も石けんで手を洗うのだが、ちゃんと細菌がおちていないのでは?という気になってしまうのは私だけなのだろうか・・・。

そんな訳で便所掃除担当の日は朝からとても気が重い。

確かに自らが身を持ってこの掃除を体験すれば、便所を綺麗に使おうかな・・・という気持ちにはなれるので、ある意味良い習慣と言えなくもないのだが、私から言わせてもらうとこれは悪しき習慣以外の何物でもない。

独居ならまだしも雑居ではマジできつい・・・。

私はそろそろ何処かの刑務所へ移送されると思うのだが、新天地にはこの様な悪習が存在しないことを祈っている。


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その4≪早くも最低なお土産を貰う≫

お土産といえば大抵は喜ばしいものと相場は決まっているのだが、刑務所内のそれは決してそんなものではない。むしろ、この通称“お土産”を頂いた方々はほぼ確実に怒りを憶えるに違いない。

私は受刑生活4ヶ月目にして早くも頂いてしまったので、ちょっと恥ずかしいけどカミングアウトしてしまうことにする。

まず、その前に少し触れておきたいのだが、此処の施設では、入浴日が一週間に二回の週と三回の週とが殆ど交互に繰り返されている。

一回の入浴に割り当てられる時間は15分と非常に短く、風呂好きな私としてはせめて二日に一度は入りたいところなのだが、まぁ、頭も坊主だし今は冬なのでなんとか我慢できている。

現在私は雑居で生活しているので、毎回5~12人程度の集団で入浴が実施されるのだが、浴槽があまり大きくないので、7、8人以上で入る場合は膝を抱える様な格好で向け合って入らなければならない。更に男同士が至近距離で肌を寄せて入る為、そっちの気の無い私にとっては不快であり、決して開放的とは言えないのだが、背に腹は代えられないのでこの季節は悪条件にプラスして垢だらけの湯船であっても温まりたくなってしまう。

ちなみに、此処ではシャンプーなどという物は存在を許されていないので、頭から足の先まで全てを石けんのみで洗わなければならない。それから、浴場内には12個の水道とシャワーが設置されているのだが、何故かシャワーを使用すると怒られてしまうので、いちいち洗面器に湯を溜めて体を流さなくてはならないのだ。たかだか風呂に入るだけだというのに、制約はまだまだある。

まず、浴場内での交談は固く禁じられている。もし、誰かと喋っているところを担当職員に目撃された場合は程度によっては連行されて取調べを受けてしまうのだ。(懲罰委員会が開催される恐れがある)

それから、髪を剃る為のT字カミソリが渡されるのだが、髪以外の毛を剃ってしまうとこれまた連行である。(まゆ毛を剃りたがる人が多いのだ)

他にも、もみあげの長さは目尻の延長線上で揃えなければならない等々、書いていけば切が無いのでとりあえずこれ位にしておこう。入浴状況はざっとこんな感じなのである。


さて、ここらで本題に入るが、私は先日の或る夜中に猛烈な痒みによって突然目を覚ました。どこが痒かったのかというと・・・・アソコである。きっと温かい布団の中で菌が活発になってしまったのではないと推測されるのだが、はっきり言ってこの痒さは耐え難い、というよりヤバスギル。

この症状が噂の「インキン」と発覚したのは数日後の医務診察の時である。(毎週水曜日が医務診察の日)医者はこういった症状を余程多く見てきたのか、「インキンだと思うよ」と冷たく言い放つと、一向に効き目の表れない薬(塗ってみて発覚した)を残して、とっとと次の患者の元へ行ってしまった。

以後、この症状は日に日に悪化し、毎晩夜中に目を覚ますと決まって私の手は股間を掻いているのだ。

言うまでもなく此処で言う“お土産”とはこの「インキン」である。

もうひとつ、最もポピュラーなところで「水虫」というのもあるのだが、私は今のところ後者には罹っていない。もっとも私は残りの刑期が十数年と長いので、罹ってしまうのはきっと時間の問題だろう。

短い刑期の受刑者は刑務所内でこの症状に見舞われ、完治することなく社会へと放り出されてしまうので、“お土産”と呼ばれる所以となっているのだろう。

そもそも、何で私がインキンになったのかと思いを巡らせてみたところ、心当たりは入浴時に座るイスに行き着いた。

どういうことかというと、既にインキンを患った受刑者が私が座る前のそのイスに菌をくっつけていったのだと思われる。

ということは、既に感染してしまった私が座ったイスに後から座った人も同じ運命を辿ることになる。

どの位の確立で感染するのかは分からないが、これは無限に感染者を増やしてしまう魔のサイクルだ。

このサイクルを考慮すると、せっかく完治したところでまたすぐに感染してしまう恐れがあるということになる。

私がこの魔のサイクルに一役買っているのは不本意ながらまぎれもない事実である。

私に菌を移した野郎は呪ってやりたいが、私から不幸にも菌を貰ってしまった人には申し訳ないので、これ以上の被害者を増やさない為にも、今では入浴の際、イスに座る前と、使用した後には熱い湯でイスを流すことにしている。

これが今の私に出来る精一杯の予防と償いである。

それにしても、一体何割の受刑者がこれ等の症状を発症しているのだろう?

ちなみに私の部屋では6人中2人が感染していた。

昨今、世界中ではHIVウイルスや鳥インフルエンザウイルスの問題が深刻化いているが、今の私にとってはインキンの方がよっぽど深刻な問題である。

それ程に痒い。

私は我々受刑者を夜毎苦しめるこの菌の根絶を心の底から願う次第である。


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その3≪刑務所内の年末年始≫

 パクられてから2度目の正月を迎えてしまった。過ぎてしまえば早いもので、まさに光陰矢の如しといったところだ。

今回は此処での年末年始の様子を簡単に記することにする。

まずは、前回書いた""ありえない収入""の作業だが、12月28日の午前中で仕事納めとなった。その後は大掃除をすることになったのだが、これがまた酷いものだった。

建物自体がまだそんなに古くなかったのがせめてもの救いだったのだが、毎日結露によってビチャビチャになってしまう窓側の壁は大量の黒カビに侵食されていて、それをタワシで落とすだけでも一苦労である。

ちなみに掃除の際に壁を磨かなければならないという決まりなんかは無いので、もしかしたら2、3年以上前からカビは放置され蓄積され続けていたのかも知れない。

それでもかれこれ2時間も掃除を続けると、部屋は見違える様に綺麗になった。

その後に入浴を済ませると、あとはそのまま1月3日の21:00迄自由時間である。


たぶん一年の中で、この約一週間の期間が受刑者にとって最も楽しいひとときなのではないだろうか。

すくなくても私はそうである。

ただ、自由といっても自分の部屋の中だけで生活するということには何の変わりも無いのだが・・・。

ちなみに現在は12畳程の広さの中に6人で暮らしているが、やる事といえば専ら将棋・オセロ・五目並べ、もしくは読書(官本)である。

一応休みの期間中は殆ど一日中ラジオが流れているのだが、6人がそれぞれに会話をしていると、とても聴けたもんじゃないのであまり意味は無い。

私の部屋は6人中4人が年末に入れ替わってしまったので最初こそは彼等の事件に至るまでの経緯や今迄の犯罪など、世間話に華が咲いたが、それ等が聞き飽きた頃には大晦日になっていた。


大晦日といえば年越しそばだが、此処では""どん衛兵の天ぷらそば""が支給された。

しかし、されるタイミングは完全に我々受刑者の気持ちをシカトしていて、なんと夕食が終了した10分後位には湯を注がなくてはならないのである。(ちなみに夕食は休みの日だと16:00頃だ)

せっかく久しぶりに食べられるカップ麺だというのに満腹中枢満たされた直後なので美味しくも何ともない。

それを無理矢理食べ終わると、次は数種類の""甘しゃり""(此処では菓子などのことをこう呼ぶのである。ちなみにしょっぱい物でも甘しゃりとなる)が配られたのだが、こちらはゆっくりと食べられるのでとても喜ばしい。

外の世界にいればこんな菓子なんか何とも思わないのだが、此処では普段自由に食べることが出来ない為、とても貴重に感じてしまう。

残さず食べてしまったのだが、我ながら浅ましい限りである。

そしてこの日ばかりは紅白歌合戦を聞きながら24:00まで起きていることが許される。


そのまま何事も無く年は明けてしまった訳だが、元旦は朝から意外とまともなオセチと和菓子の折り詰めが配られ、僅かながらも正月気分を味わうことが出来た。

更に三箇日は毎日餅が出された。

正月太りを目論んでいた私にとっては、まさに打って付けのメニューだったのだが、1月5日の時点で体重を量ったところ、正月以前と比べプラマイゼロという結果にあえなく終わってしまった。

何故私が太りたかったのかというと今暮らしているこの部屋にはなんと暖房器具が一切無いからなのである。

まだ南側に窓があるのが不幸中の幸いといったところだが、空が晴れていなければ最悪な一日となる。

此処は北国に属している地域なので、雪も降れば気温も低い。

はっきり言ってこの季節は苦痛以外の何物でもないのである。

普段の食事は朝・昼・晩の殆どを完食している私だが、カロリーが足りていない所為か体重はほんの少しも増えてくれない。

そんな中で唯一太れるチャンスだった筈の正月期間は結局私に何ももたらしてはくれなかった・・・。

まぁ、こんな感じで新しい年がスタートしてしまった訳だが、一体どんな一年となるのだろうか。

私はとにかく一日も早い出所を目指しているので、懲罰などを受けることなく無事故で過ごしていきたいものである。

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その2≪初任給は驚愕の339円≫

10月1日、全ての裁判が終了し、被害者側との示談などが成立した為、最終的に私の刑は懲役16年と確定した。その旨が記された通知が私の手元に届けばその瞬間から懲役としての生活がスタートすることになる。

刑が確定する前の状態を未決と呼ぶのだが、未決囚は週3回1日700円(1週間で4900円以内)の範囲内で、コーヒーやジュース、菓子類、カップラーメンetc・・・・が買えるし、それ以外にも週1回日用品が買えたり、毎週3冊までなら好きな本が買えたりと、結構自由度は高い。

服も私服の着用がOKで、差し入れしてくれる人がいれば、座布団や布団も私物の使用が可能である。

ちなみに手紙のやり取りと、面会などは、平日であれば毎日することが出来る。(回数は制限されている)

そして刑が確定した後の状態を既決(きけつ)と呼ぶのだが、これが現在の私だ。

この既決囚になってしまうと、社会的な身分が受刑者として確定してしまう為、私に対する扱いは、今までとは全く別のものになってしまうのだった。

前回、私は某刑務所内にて生活している、と書いたが、厳密には刑務所の施設内にある分類センターというところに収容されているのだ。

此処は要するに、全国のどの刑務所に受刑者を送るのか審査するところである。

どういう事かというと、刑務所には幾つかの種類があって、初犯刑務所はA、累犯刑務所はB、長期(8年以上の刑)の初犯刑務所はLA、長期の累犯刑務所はLB・・・さらに少年刑務所(28才以下の受刑者で、32才位までに出所する人が多い)は初犯がYA、累犯がYBと区別されるのだが、受刑者はこの中の何処かに送られるという訳だ。

私の場合は、28才以下に含まれるのだが、刑が長いので、少年刑務所には送られないものと思われる。

ちなみに犯罪が悪質たったりすると、初犯の人でもB刑務所に送られる場合があるという。

分類センターは、刑期確定後におよそ2~5ヶ月収容されるとのことだが、私は現在2ヶ月目である。

此処は言ってみれば最悪な場所で、自由度が極めて低いのである。

たとえ自分の本を持っていようと、此処にいる間は読むことが出来ないし、私物の下着の着用も許されないのだ。

しかも、必要最低限の買い物しか出来ない。(便箋・封筒・切手・ボールペンのみ)ので、私物の石鹸や歯磨き粉などが無くなれば、官物の支給を受けることになる。驚くべきは歯磨き粉で、なんとペースト状ではなく、粉状のものを支給されるのである。今は21世紀で宇宙旅行すら計画されている時世だというのに、粉歯磨きなんて、一体どこで売っていたのだろうか・・・?

そして、何より私が受刑者となってから苦痛を感じたのは、誰が使っていたかも分からない、とても臭い布団で寝なければならない事だ。

この素敵な臭いから想像すると、長期に渡って洗われていないのは明白で、臭いもさることながら、ご丁寧に無数のシミまで付着している次第である。

一応、シーツなどは定期的に交換してくれるのだが、この布団を使用した最初の夜は、余りの不快さの為、ちゃんと掛けることが出来ず、早速風邪をひいてしまった。

まぁ、そのお陰で次の晩は鼻が詰まっていたので、臭いを気にすることなくグッスリと眠れたのだが・・・。

ちなみに今ではすっかり慣れてしまったので普通に寝ることが出来る。

あんなに嫌だったのに、人間の順応性とは凄いものである。でも、やっぱりちょっとくさいけどね。

それから、今の私は昼間は基本的に部屋の中でずっと座っているという生活の為、座布団も重要なアイテムの一つとなる。未決の頃は、差し入れしてもらったテンピュール素材の厚さ10センチ程の座布団を使っていたので、ケツへの負担はかなり軽減されていたのだが、それももう使えなくなってしまった。

現在使用中の座布団はといえば、厚さ2センチ程の只のスポンジである。(一応カバー付)

これは想像して頂けば分かる通り、実際に座ってみると地面とケツとの距離が殆ど無くなってしまうので、本来の役割は全くと言っていいほど果たしていない。私は痩せ型なのでとても苦痛である。

その座布団に座りながら、受刑者は作業をしなくてはならない。

ただ、作業と言っても、私はまだ分類センターに居るので、現段階では内職程度のものだ。(本所に行けば工場などで数種類の作業をさせられる)件のスポンジに座った状態でひたすら同じ作業を繰り返している訳だが、今やっているのは、某大手電話会社や某洋服ブランドなどの紙袋を、折ったり貼ったりしている。

こんなものが全て手作業だったとは以外である。

まぁ、内職と言っても立派な仕事だ。

当然、それに対する収入が得られる筈だと思い、一体どの程度のものなのか気になった私は職員に質問してみた。

私:「お伺いしますが、これって1日いくら頂けるんでしょうか?」

職:「・・・・」

私:「じゃあ、1週間でどれくらい貰えるんですか?」

職:「・・・・」

私:「だったら1ヶ月でいくら貰えんの?」

職:「500円だな」

職員の申すところによると、時給でも日給でもなく月給が500円とのことだ。

私は10月11日から作業を始めたので、10月分の給料(作業賞与金という)はなんと339円だった。

日給に換算するとおよそ34円。1日6時間労働として時給は約5.6円である。

あまり数字ばかりを気にすると、とてもじゃないがやってられないので金の問題じゃないんだ・・・と無理矢理

割り切ることにした。これはきっと私に課せられた罰に違いない。

それにしても今時の小学生だってもっと貰っているんじゃないだろうか?そりゃあ、1日でも早く出所できる為だったら、何でもやってやろうとは考えているが、せめてもう少しモチベーションを上げてくれる対価を得たいものである・・・・。

こうして私の懲役生活はスタートしたのだった。


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その1≪懲役20年を求刑される≫

平成16年の初句、私は殺人及び殺人未遂の容疑で逮捕された。(正確には出頭した)

言うまでもなく私は人を殺したのだ。

原因は今思えば実にくだらないもので、ヤクザ者同士の偶発的なケンカから全ては始まった。(この事件をきっかけに私は組織から破門されてしまったので、今となっては素人同然〈?〉なのだが、事件当時は構成員だった)

事件の内容はというと、相手4人に対し私はその内の3人をナイフで刺し、1人は死亡、1人は重傷、1人は軽傷、そして残りは逃走という結果を招いた。ちなみに私も怪我を負ってしまい、片腕を30針程縫った。この事件に対する検察側の求刑が20年だったというわけだ。

私を取り調べてしていた刑事や弁護士はおそらく15年程度ではないかと予想していた為、私もてっきりそんなもんだろうとタカをくくっていたのだが、『いかに重い罪で起訴できるかが仕事だ』などと平気な顔をして言ってしまう検察側は、私に20年を求刑したのだ。

求刑される以前はほとんど意識することは無かったのだが、『20年』という数字で具体的に明示されることにより、刑の重さが初めて現実のものとなって私にのしかかってきたのだ。

裁判中は沢山の傍聴人が見ている手前、顔色を変えるわけにはいかなかったのだが、この時の私は、『20年』という刑の重圧をはっきりと感じていた。

今の世の中で平和に暮らしている若い人たちに聞いてみたいものだが、自分の人生の終わりについて意識してみたことはあるだろうか。

極端な話、『1年後にあなたは死んでしまいます』と突然知らされたら、死に前にまず何をするだろうか?

きっと幾つかの本当にやりたい事のみを選び出し、その中でも優先順位の上位のものから実行に移していこうと考えるのではないだろうか?

私はこの度、20年を求刑された直後に自分の死というものを生まれて初めて意識させられた。

それは何故かというと、この先獄中で20年も過ごしていたら、そのあいだに死んでしまうのではないか?

ということだ。

私以外の受刑者(特にロングの人)も、きっと一番嫌な事は獄中死ではないかと思われる。もし、そうなってしまえばこのまま二度と塀の外の世界を目にすることなく、GAME OVERとなる。リセットボタンなんて無いのが現実だ。

しかも、一度塀の中に入ってしまえば、そこには自分の力ではどうにもならない世界が拡がっていて、ひたすら刑の満了を待つのみとなる。

私の場合ちょっと気づくのが遅かった感は否めないのだが、生きて出所することが出来たら、残りの人生は自分に素直になって、本当にやりたい事を実現させる為だけに費やそうと心の底から思うことができた。(勿論良い意味で) 

要するに、他人に決められた未来の中で、一度の人生を終えるのは嫌だと気が付いたのだ。

若い時は(私はまだ20代だが)人生は無限に続くかの様な、根拠無き楽観が気持ちの中に存在しているが、それ故、後先考えずに行動してしまうものだ。だが、今回の私の様に、『人生は決して長いものではなく、一度きりで片道なのだ』と、いうことをはっきりと意識することが出来れば確実にくだらない事には手を出さなくなるだろう。これは、早いうちに気付けば気付くほど良いことだと言える。今、この瞬間にも一秒ずつ終わりは近づいて来ているのだから・・・・・。

と、まぁこんな事を求刑後から考えるようになり、今に至る訳である。いきなり最終話的な内容になってしまったので、自分でもちょっと困っているのだが、本来の目的は、刑務所初体験の私の視点から見た塀の内側の実状をリアルタイムで伝えたかったのである。

多くの人が決して触れることの無い、ごく身近に存在している現実の世界を。

現在の私は、某刑務所内にて生活している。

一体何年後の出所となるかは見当も付かないが、続けられる限りこのThe Prison Chronicleを続けていくつもりだ。

こんな感じで始まってしまったが、記念すべき第一話はこの辺で・・・

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