今の教会は腐って落ちる寸前です。 | mmfjtoのブログ  ~なぜなら ぼくは、どうしようもないくらい汚れ腐ってますから~

今の教会は腐って落ちる寸前です。

 どなた様も、旧リトルペブル同宿会、現在のリトルペブル  のヨゼフパパファンクラブには、関わらないでください。

ただ、彼らと、クリスチャン、

特にカトリックの人々の為に、神様に祈ってあげてください。カトリックは、酷いのは間違いないです。ごらんの通りですから、自分は、まじまじその酷さに毒されました。本当にカトリックの現状はどうしようも無い、情けないを通り越して、唖然とさせられる事柄が、ゴロゴロしてますから!!







そういう視点でこれを見てください。


瞬時にあなたに、沢山のあわれみが心から湧きでてくるでしょう。

 


!!!!!!!



今の教会は、腐って落ちる寸前です。そうマリアママは、各地で預言しました。

愛が無いからです。そして、教会はフリーメーソンにのっとられてしまいました。

サタンの化身である、ロード・マイトレーヤーにのっとられてしまいます。

いずれ、偽教皇がたち、教会に属する多くの人を、地獄に連れて行こうとします。

今は、最悪の時です。


それに、教会は、貧しい人たちや、売春をしている人たち、同性愛者や性同一障害、性転換した人たち、性的罪に苦しむ人たち、道徳的に何もできない人たち、を教会は軽蔑し外に追い出してしまっています。


フランスで、ジャン・マリー神父は、出会う、貧しい人や明らかに夜は売春をしている女の子に、通りすがるたびに

小銭と祝福をあたえ、愛をもって声をかけていました。行き来何回も同じ人にあっても、同じことをしていました。


金額の問題では無くて、愛の問題で、今の教会には、まったくなくなってしまったことを、

ジャンマリー神父は実践していました。




(実際に小さな金額でも施しを行う行為を善い行いとして奨励したのは、スタインバック神父でした。当時の聖母マリアのミッションに集っていた人々は、レオ・スタインバック神父を信頼していました、しかし、中には、本来のカトリックの精神から離れてしまう人もいました。それは、善い行いをしていれば功徳を積めるからそれでいいのだとい人達です。しかもそれは何か点取り合戦のようなゲーム性があるもので、自分がいかに神の指示、司祭の指示に従っているかを自負するだけの人々が出てきました、これは、その典型的な話なのです。

いかにも善行し愛ある行為に見えるかもしれませんか、それは、善行を見せて承認されたいという隠された欲求を満たす行為でしか無いのです、ゆいなれば、神様に褒められる為にしている行為で、貧しい人や依存に苦しんでいる人の苦しみや悲しみとか、知的な障害や精神病を抱え苦しんでいる人や脳の神経発達障害を抱えている人の現実の苦しみに寄り添う事など一切していないのです。そこに大きな問題と罪が隠されています。
ただ自分の功徳を積む為に、孤独で貧しい依存症者を利用しているに過ぎ無いのです。

スタインバック神父に言われたからやってるだけ、それが自分の功徳だからです。彼らのような人は、自分がいかに神から褒められて、死後に、神により近い地位に達するかしか思いが無いのです。全くアホらしのです、他者や隣人をどこまで踏み台にして、自分が一番偉くなりたいと、栄光の冠の為に、忍耐しているだけです、
実直な愛など無いのです、残念ながら、本来的に本質的にそのような状態の人なのだと思います。

神さまは、実に、世間的にあわれな人々を使って、もっともあわれな存在を救おうとしているのです、まさに、ミスターカトリックとは、そのような堅物でどこまでも意固地であわれで、自分が中心の最上位にいなければ気が済まない人間そのものです。彼は、同じような障害を抱えた知的な障害と発達の障害を抱えている人達をいたく毛嫌いします、それは、彼ら彼女らが悪魔の影響を受けやすく、絶対的な神の使徒である自分を害してくるからだそうです、また、発達の障害を抱えていた子供に対し悪魔付き呼ばわりして、どこまでも悪魔祓いを強要したり、彼がお漏らしをした便がついたズボンや床を見て、ものすごい嫌悪を表明して、他者に命令して後始末させたり、障害を持っている人に、本当に寄り添うという事を目指さない人物でした、
これが現実、口先だけのカトリックです。

表目的な愛ほど虚しものは無い、既に見返りを期待して得ているから、

だから、ミスターカトリックは、酷くあわれなのです、それゆえに、他者よりも何倍も、神さまからのあわれみが必要であり、かつ、彼と彼に追随している人々の為に、多くの人の祈りが必要なのです、神は慈愛です、神の計らいは人間には計り知れないのです。どうか彼らの為に一言でも祈りを、一文の祈り、1円の祈り、)


本当に、教会、特に現代のカトリック教会は、腐ってしまったと思います。腐って落ちる寸前です。

そう思います。瞑想やカリスマチックな祈りとか、そういうものが、幅を利かせてきています。

とても、オカルト的になっています。そして、いかにうまくこの世の中をいきぬくかという、自分の人生の

ことしか考えないような、教えになってきています。

隣人への愛ではなくて、いかによりよく生きるかというカトリックとは、まったく違うことを教会は、教えています。

苦しみの意味も教えていません。

とにかく、既存の教会は、まったく、神ちゃまのおもいとは、逆になってしまっています。


マリアママは、言っています。ロード・マイトレーヤーにのっとられる、既存の教会には、絶対に行かないでほしいと、みんな、ロードマイトレーヤーの元に連れて行かれます。


地獄の門に勝つのは、教皇だけです。ベネディクト16世が、亡くなれば、次は偽教皇がたち、皆をだまします。

ですから、リトル・ぺブルさんがすでに教皇です。彼には、地獄の門を打ち破る、鍵が渡されています。

そして、必ず、悪魔に勝つのです。かみちゃまが、必ず勝利するのです。


それが、希望です。終末がきて、人類が滅びるわけではありません。

必ず神ちゃまが勝利して、地上にパラダイスが降りてくるのです。


ですから、みなさんに言います。リトル・ぺブルさんを愛して支持しましょう。 


そして、ぜったに、今ある教会に行かないでください。 聖なる雰囲気だけです。

雰囲気だけでは、意味がありません。


メッセージは、フランスに行ったとき、ベルナデッタねーちゃんからのものです。


せば、またねん MMFJ







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2007年7月27日 AM0:15
マリー・マドレーヌに与えられた、聖ベルナデッタからのメッセージ
フランス・ルルドにて
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マリー・マドレーヌ:
私たちはちょっと夜遅くご飯を食べて、PM11:30過ぎにはみんな横になったところだったんだけれども、相変わらず私はやっぱりちょっと眠れないでそのまま横になってました。そしたらAM0:10前、0:10になる前になんですけど、「物乞いが多いの」ってちょっと悲しげな感じでベルナデッタの声が聞こえてきました。「しるしある?」って聞いたら識別のためのしるしをもらいました。
 あ、またしるしくれました。

聖ベルナデッタ:
 愛するマリー・マドレーヌにベルナデッタが話します。ここルルドでもあなたは見たように、物乞いをする人に出会いしました。すごい裕福でたくさん食べる人もいれば、人からお金をもらわないと生活していけない女の子に至るまで様々で、巡礼団も組んでくる人たちも大勢、ここで、ルルドの泉の恵みをもらおうとして、思い思いの行動でやってきます。

ベルナデッタが悲しいのは、癒しを必要とする人たちみんなとは言いませんけど、その人たちは物乞いをする人達にとって身近な人たちになろうとしないで、教会の前に座る人々をそれぞれの目で見て帰っていくのがとっても悲しいです。

ベルナデッタはルルドの泉が湧いても、人に直接手を触れるなどはしたことがありませんし、自分でもマッサビワの洞窟には、あのあと行かなかったです。巡礼者が作り上げた、この聖地なんです。むしろヌヴェールでは、修道院に入ってたくさんの仕事をしました。病人の世話、それがイエズスをみることだと、唯一感じた仕事だったんです。本当にみなし子たちの世話をしたくてしたくてたまらなかったけれども、結核があったし、残念だけど先生の資格をもっていなくて、お世話する力はありませんでした。結局どこにも派遣されないで、ヌヴェールの修道院で最後まで過ごしました。皆はあちこちに派遣されていったけれども、ベルナデッタだけが残って、トイレ掃除、みんなが嫌がる仕事をしたんです。

実際、今日・・。昨日カショに来てくれましたけど、あのような貧しい生活をしたのに、一生涯本当に卑しいままで過ごしました。無限罪の御宿りの聖母に会うまでは、全く普通と変わらず貧しい生活で、友達とも話をしたけれども、勉強が出来なくって、それでも初聖体は受けられるようにと祈りながら過ごして、学校に行って勉強しました。だけど障害のため記憶が悪くって、そこでもはずかしめられる経験をいっぱいしました。

マリー・マドレーヌに話します。今のあなたの道でいいんです。はずかしめられて、そして卑しい者とされていくのは、マリア様から愛される唯一の道になります。神の子であるイエズスがはずかしめられたのに、なぜ人間ははずかしめを嫌うんでしょうか? 卑しめられることを嫌うんでしょうか? やっぱり裕福になりたいとか、美味しい食べ物を食べて、みんなで楽しい時間を過ごしたいとか、いろんな思いが人間を支配してしまっているんでしょうね。

このルルドの聖地は、まさにお祭り騒ぎのような部分で、片方では祈り一辺倒だし、片方ではお祭りのように人がたわむれて、ルルドの水に酔っているかのように、そんな聖地になりました。

ベルナデッタは本当に15日間、貴婦人にお会いしただけで、あとは全然ルルドを見ませんでした。物乞いが各国どこに行っても多いです。なぜだか教会の前にいっぱいいるんです。教会の広場とか、そういう人たちは、本当に夜、売春をしているかもしれないし、いろんな身の上の人がいて、今現代も乞食のような、そんな様でいる人がいっぱいいます。精神的に孤独になって、お金ではなくて、話し相手になって欲しいと、リジューでせがんだ男性も、マリー・マドレーヌは見ましたね。教会が、きりがないので、あげだすときりがないので、お金をあげることをやめてしまっています。軽蔑しかそこにはないんです。

それが教会って言えますか? すごく悲しくって、心で開いていますという状態だけです。行動では投げ与える人もいますけど、本当に愛を持って、勇気を持って、不潔かもしれない、その人たちに手を差しのべる、そんな愛が生まれる教会が増えて欲しいです。

マリー・マドレーヌは、この現実を見てショックだったかもしれません。実際にこれが現実なんです。パリでもそうだったでしょ。みんな物乞いをする人たちに対して、いろんな眼差しをおくっています。物乞いが減ったら、どんなに世の中が変わるでしょうね。売春しかできなくって、家庭を支えるために売春する人も、なかに大勢いる現実を見て下さい。

残念ですけど、そういう人たちが一番福音を聞かなければならないのに、その人たちを羊の囲いの外に出すという行為を、教会はしているんです。

「じゃあ、どうすればいいの? ただお金をあげればそれでいいのか?」って言われてしまうと、そうじゃなくって、あげるのが目的じゃなくて、愛してあげて欲しいんです。

「一緒に友達だよ」とか「私たちも祈ってるからね」とか、一言でも声をかけてあげるといいなと思います。

ベルナデッタのお願いですから、寺沢でそんなことを起こさないようにして下さい。ルルドはお祭り気分がずっと続くでしょうし、中には改心してそれをやめようと動く人が出るかもしれないですけど、このままだとマリア様が悲しくって泣いてらっしゃると、私は言いたいです。

司祭の祝福を、このルルドの地にいる人たちにお願いします。

ジャン・マリー神父:(このルルドのの地にいる人たちに)
 全能の神、父と子と聖霊とが汝らを祝福し給わんことを。アーメン。

マリー・マドレーヌ:
 確認のしるし、今とれました。
 「他にありますか?」って聞いたんですけど、もうないです。