バレンタインと理解と誤解 | ゆでたまごになりたい

バレンタインと理解と誤解


先日はバレンタインという行事に苦しめられました

21歳女子

どうもhittomです


はじめに言っておきますが、今日は話がかなり飛びます。



バレンタイン


昔はもっと前からわくわくして


何作ろうかな とか

何にいれて渡そうかな とか


いろいろ楽しんでいたはずなのに

いつからこんなに苦しいと感じるようになってしまったんでしょうか


お菓子づくりが大好きで

料理も大好きで


趣味は

料理本を眺めること

クッキーの型を集めること

食べ歩きをすること

新しい食材にチャレンジすること

栄養学を学ぶこと

なによりもつくること


だったはずなのに


料理学校に通いたいと本気で願い

お金を払える範囲で習いに行っていた(今でも行くけれど


はずなのに




そんな私が


バレンタイン、、、忘れてたわーorz


みたいになってました。今年は。


結局つくってみたら楽しめたましたし

渡す時にはかなり緊張したりしました(乙女


けれど以前とはやはり違います


腰も重くなったのでしょうけど

それだけではなく


ひとの気持ちは、変わるものですね。

絶対はないのだと、つくづく感じました。


私はこうだ! という説明は、単なる思い込みにすぎない


ある一時的な、一側面でしかないわけです。



とここまではバレンタインの話。

ここからは本の話。



「理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない。」



大好きな言葉です。

どうやら、ここにも、(バレンタインに対する私のスタンスへの思い込みにも)、あてはまるようです。


うん、確かに理解というものは全て、たくさんの理解でなりたっている。


そのたくさんの理解は、ある理解からしたら誤解

ある理解からしたら誤解


そのとうりだ



立場が変われば正義も変わる



けれど、そう考えてしまったら、

きっと世の中はとてつもなく恐ろしいものになってしまいますね。


(そう考える人にとって、ということです)



知っていると思い込んでいること (理解:知)

知らないと思い込んでいること (無理解:非知)


この2種類でものを考えてしまったら、きっと、頭の中は大戦争です。



世の中のことを、自分のことを、何も知らないし、知っている


ということですから。


確かにわかること が一気になくなってしまいます。


目も見えないし

耳も聞こえなければ

何も話すことができない


そんな世界です。

恐ろしい世界です。


きっと、怖い。


出口のない答えは、いつもここから生まれてしまうのでしょう。

辛いですね。


けれど、それでも、

丹念に、丁寧に、考えていくことでしか

きっと何も理解することなどできないのでしょう。


相対する以外に道はないのでしょう。


思い込むこともできず

相対することもできない


そんなひとが

精神の迷路にはいりこんで夢の中で生きてしまうのでしょう。


その恐ろしい世界は


ときとして

夢という病に属する結果を生むのではないでしょうか?



このことについて、私にこのような示唆を与えてくれた本は

「スプートニクの恋人」という本です。


小説としてはなんとも言えませんが

個人的にこの一節を丁寧に取り扱う箇所があると感じた為

わりと読み返すことが多い本のひとつです。



機会があれば、是非。