今日、事務所の前に泥だらけのネズミがうずくまっていたので見ていたのですが

とおりかかった女の人が「キャッ!」と悲鳴をあげたのですが、

そのときふと、

このネズミがミッキーマウスだったらどうなるのかな、と思いました。

たぶん、「キャッ!」は「キャー!」という黄色い声援に変わっていたと思うのですが、

同時に、ふと



「ブッダがミッキーマウスとネズミを見たらどう思うだろう」



と考えてみました。


いや、ブッダがどう思うかなんて分からないので、僕が勝手に解釈する「ブッダ的発想」でしかないのですが、


たとえば、僕の目の前にいるネズミはよくよく見ればズブ濡れで、そもそも人前にこうして姿を現している時点で


彼(ないしは彼女)には大きな問題が発生していると考えられ、具体的に言えば、数時間以内に死ぬのでしょう。


そう考えると、ブッダ(的な人)は、ミッキーマウスよりも目の前のズブ濡れのドブネズミに愛しさを感じるかもしれません。


少なくとも、そう感じることは、人間としてそれほど違和感がない気がしたのです。


しかし、現実を見ると、目の前のドブネズミは害として扱われ、ミッキーマウスは年間何十兆円という価値を叩き出します。



ある視点で見ればそれほど差はないのに、社会における「価値」は天と地の差があります。



それを見て、改めて「売れるって何だろう」ということを考えさせられました。



現代社会において「売れるものを作る」というのはかなり揺るぎない価値になっています。



もちろん中には「売れるものはダメだ」と言うアーチストの人もいますが、なんとなく負け犬の遠吠えっぽい感じがしてしまいます。


そして自分自身もずっと「売れる」ということは社会の人たちを喜ばせていることであり、それは本当に素晴らしいことだ、と考えてきたのですが


ふと、ネズミを見ていて「そうとも言い切れないぞ」と思ったのです。



それは、社会の人たちの喜びは、実は「無知」の上に成り立っている気がしたからです。




分かりやすく考えるために極端な例を挙げますと



地球上に、AとB、2人の人間しかいないとして




AはBを殺したいと思っていたとします。しかし、Aにはその力がない。




そこでAはBを殺すための武器を欲しがっています。



そこで、Aに武器を与えたとします。



Aは「喜び」ます。



武器は、Aにとっての最大のサービスだからです。



そしてAはその武器を使ってBを殺します。



そして、そのときAは、「しまった」と思うのです。



地球上に自分とBしかいなかったのに、Bを殺してしまったことで



Aは全てを失ってしまいました。Aは大きく後悔することになります。




しかし、Aに「武器」を与えたことはAを喜ばせることであり、Aに対するサービスだったのです。




そして、現代社会において、僕たちが「売れるサービス」と考えていることは、




Aに武器を与えていることと同じかもしれません。



たとえば、


「何から何までケアしてくれる超一流のホスピタリティにあふれたホテル」


があるとして、


でも、「色々してくれる」ということは、同時に、「お客が成長する機会を奪い続けている」


とも言えるわけで、さらに超一流ホテルが消費している地球のエネルギー量は、プレハブ小屋に比べたら遥かに膨大であり


より高い見地から見たとき、超一流ホテルのサービスが僕たち自身にとってマイナスとなる可能性があり、


現状の僕たちにとって超一流のホテルが素晴らしいということは揺るぎない価値ですが、


より高次の視点から見れば、Aに武器を与えるというサービスかもしれません。




「お客さんは神様である」と信じて実践する者が資本主義における成功者になり得ますが



真実の立場からすれば



「お客さんは無知である」



であり、



売れることは絶対的な善ではなく、



成功者やお金持ちは、その時代の「無知なる人」たちの思考を知り、無知が喜ぶものを与え続けた結果でしかないと言えそうです。



ただ、それが真実だと分かったとしても、自分の場合は、今後も「売れる」ことや、この時代における「サービス」というものを重視していくことになりそうです。


それは、過去に、すごく売れた人が突然「成功よりも幸せが大事」とか言い出したり


「自分が作りたい物を作れればお客さんは関係ない」という人に対して




「このオナニー野郎が。死ねや」



と散々毒づいてきており、逆に自分がそう言われるのが、とてつもなく怖いのです。




結局、「より質の高いサービスを」を考える人は、他者の視線に縛られている囚人なのです。



だから、自分の場合は朝から晩まで閉じこもって仕事をしているこの8畳の牢獄から脱出することはできなそうですが、



今回の話は、「無知のレース」から降りた人にとっては意味があるかもしれないと思いました。



現代社会の価値観の中で「価値がない」というポジションに位置していたとしても


それは、慰み言や、負け惜しみでもなんでもなく、そんなことに本質的な価値はないのです。



成功やお金とは「大多数の無知」の山の上に立てられた旗でしかありません。



少なくとも泥だらけのネズミは、


もう永くはないでしょうけど


そのことには囚われてはいない生涯だったと思います。