半月 第三章



解かれた封印 (2)


それからずっと、ぐっちぃは半月に来なかった。
まあ、あんなことがあってもずうずうしく店に顔を出すよう
なら、美月さんからもパンチを食らってたかもね。
わたしは、そんな人がいたことすらすっかり忘れていた。

そんなある日。昼ご飯の後すぐに美月さんが買い物に行った
ので、わたしが留守を預かってた。

こん、こん、こん……店の扉を叩く音がした。
誰だろ? 宅配か郵便かな?
サンダルを突っかけて扉の窓から外を見たら、ぱりっとした
背広姿のぐっちぃが立ってた。

おやあ? まーた、こんな昼間になんで?
昼間に店に来られること自体、水商売の人間には辛い。
まして愚痴りに来られた日にゃ、今度はゲンコツじゃなくっ
て凶器が出るぞ。おい。

でも、どうもこれまでとは様子が違う。
えらくすっきりした顔をしている。
ぽっかり、笑顔だ。

窓越しにわたしの顔が見えたんだろう。
手帳を出して、その空きスペースにボールペンで何やら書い
て、わたしに見せた。

『美月さん、いる?』

わたしは両手でバツを作った。

「る す」

ぐっちぃは、ちょっと残念っていう顔をした。

『じゃ、夜来ます』

それをわたしに見せて、すたたたた、と歩き去った。

んー。なんでわざわざ昼間に来たんだろ?

ちょっと考えてみて、一つ思い当たった。
そうか。夜だと、また愚痴りにきたと思われるからだな。
ぐっちぃは自分が変わったことを、早く美月さんに見せた
かったんだろう。

ふーん?


           −=*=−


その日の夜。
店が開くのと同時くらいに、ぐっちぃが来た。
昼間と何も変わらない。ものすごく明るい表情。
美月さんは、ほおおという表情でぐっちぃを見て、それから
にっこり笑顔で話しかけた。

「ぐっちぃ、おひさしぶりね」

「あ、ご無沙汰してます」

ぐっちぃは、すぐにウイスキーの水割りを注文した。

「あさみちゃん、グレンフィディック三十年があったはずだ
から、それを出して」

げえっ! そ、そんな高いの出すのー?
わたしが絶句してたら、ぐっちぃも慌てて手を横に振った。

「そんな高いもん飲んだら、気楽に話できません、て」

「あら」

美月さんは、楽しそうに言った。

「旅立ちの宴はね。けちけちしてはいけないのよ。とても大
切なんだから」

え? 旅立ちって?

「んー、美月さんにはすぐばれてしまうなあ」

ぐっちぃは頭の後ろをぽりぽりと掻くと、そこからカードを
扇のように広げた。

「ピーコック。相変わらず、お見事ね」

「ははっ。毎日やってますからね」

卓ちゃんは、どこかわくわくしている様子だ。
わたし一人がまだ用心してる。
損だよなあ。思いっきり、ぐーでぶん殴ってもーたからなあ。
どうにも後ろめたい。

美月さんが、ぐっちぃに尋ねた。

「で?」

「ああ。就職しました。食品関係の普通の会社です。営業で
すけどね」

えええっ!?
あれだけプロのマジシャンにこだわってたのにぃ。どういう
変節?
それはそれで、ちょっとがっかりだなあ。

「そう。後悔はないのね」

「ないです。マジックは今でも毎日披露してますから。どこ
でも出来るってことです」

ぐっちぃはいたずらっぽく笑って、わたしから水割りのグラ
スを受け取った。
そして、それにちょっと口を付けると。
うん? ……というヘンな顔をした。

「あさみちゃーん、これはないっすよー」

わたしが慌てて覗き込むと、確かに水割りじゃなくてただの
水になってしまってる。

「ごめん なさい」

ぐっちぃの様子に気を取られて、うっかりヘマやっちゃった
かなあ。

もう一度、今度は慎重に。
グラスに酒瓶を傾けて、って、って、ってー? え?
あっれー、おっかしいなあ。今度は出ない。

そんなあ。さっきちゃんと残量確認したわよ。
口切ったばかりだからほとんど残ってるはずなのに、なんで
出ないの? どうなってんだあ?

美月さんも、卓ちゃんも、腹を抱えてげらげら笑ってる。
わたしはわけが分かんない。

「あはははは。あさみちゃん、瓶の中をちゃんと見た方がい
いわ」

美月さんに言われて、中身を確認すると。

バラの花ぁ?
ぞ、造花、じゃないよね? 生花だよね、これっ!
ど、どど、どっからこんなもんが沸いたのーっ!?

わたわたしているわたしを尻目に、ぐっちぃが悪戯っぽく
言った。

「前にがっつり殴られてますからねぇ。お返し」

くっ。やられた。

でも、あのお酒はすっごく高い。
店にとっては大損害だよー、美月さん。
そう思って美月さんの方をちらっと見た。

「心配ないわ。もう一度確認してご覧なさい?」

再び、えっ、という感じで手元を見ると。
バラの花は影も形もなくて、ちゃんとお酒が元に戻ってる。

うわ……イリュージョンだ。
マジックの中でも一番華やかで、一番度胸が要るのに。
いともやすやすと。

いったい……何があったんだろう?

「何があったって思ってるでしょう?」

ぐっちぃがわたしの顔を見て、静かに笑ってる。

「大したことじゃない。見せるカタチにこだわらないことに
した。ただ、それだけです」

分からない。どういうこと?

「プロのマジシャンはね。カネを取るだけに絶対に失敗でき
ない。お客さんの前では神である必要があります。でもね、
お客さんは神を見たいわけじゃない」

ぐっちぃが、さっき瓶の中に入っていたバラの花をすいっと
かざした。

「お客さんが期待してるのは、夢。わくわくすること。それ
を見せてくれるのは誰でもいいんです」

「ええ、そうね」

美月さんが、軽く頷く。

「俺は子供の頃に見たマジックの虜になった。でも、それを
見せてくれた人が誰だかもう覚えていない。それでいいんで
す。だから」

ぐっちぃが、ぱちんと指を鳴らした。
ぐっちぃの持っていたバラの花は、いつの間にか美月さんの
髪を飾っていた。

「まあ!」

「お礼を込めて。それと、ご報告。月の裏側から、太陽の表
側に引っ越ししました」

ぐっちぃの宣言を聞いて。思わず涙がこぼれそうになった。

きっかけ。そう、なにか一つでもきっかけがあれば。
全ては変化して転がっていく。
それがどんなにイヤなことであっても。
屈辱的なことであっても。

ぐっちぃは、それを見事にものにしたんだ。
見せるカタチにこだわらない、その一点だけで吹っ切って。
わたしは……わたしは……。

ぐっちぃが、美月さんに声をかけた。

「美月さん。俺が最初にこの店に来た時に、人質にしたコイ
ンがありましたよね?」

「あるわよ?」

「それを請け出しに来ました」

「そうね。もう、私の手元に置く必要はないもの」

「じゃあ。返していただきますね」

美月さんがどこからか、銀色の大きなイミテーションコイン
を持ってきた。

「あの時。美月さんは俺にこう言ったんです。月を呼んでい
らっしゃい。あなたの掌の上に。それまでこれは預かっておく
わ、ってね。美月さん、それを俺の掌の上に置いてください」

ぐっちぃは何かを掬うような手つきで両手を上に向け、くっ
つけて広げた。
美月さんが、広げた手の真ん中にコインを置く。
ぐっちぃが、それを包むように両手をすぼめた。

手を開いた次の瞬間。
ぐっちぃの手の中から輝く大きな水晶玉が現れて、四方にま
ばゆい光を放射した。

うわっ! 眩しい!

「満月です。みなさんに、至福の時が続きますように」

それは本当に至福の時だった。
その光が絶えると同時に、それは元のコインに戻っていた。

美月さんが、頬に一筋涙を流していた。
そして、ぽつりと呟いた。

「帰りたいわ。月に」

ぐっちぃはコースターの下に一万円札を敷くと、静かに言い
残した。

「みなさん、いい夢を。では、お休みなさい」

ぐっちぃが立ち去っても、わたしたちはしばらくぼーっとし
ていた。

わたしは卓ちゃんと顔を見合わせて、はあっと溜息をついた。

「すっごいよなあ……」

「うん、すごいよねー。なんで、あんなのがささっと出来
ちゃうんだろう? もう不思議で不思議でしょうがない」

美月さんが、あれっという表情をした。
そして穴が開くほど、わたしをじっと見ている。

「あさみちゃん、あなた……」

「なんですか、美月さん? やだなあ。わたしの顔に何かつ
いてます?」

卓ちゃんも、目が点になってる。

え? あれ? 確かになんかヘンよね。
あーあー、本日は晴天なり、本日はって、今は夜じゃん。
いや、そんな滑ったギャグやってる場合じゃないっ!

「わたし、普通にしゃべってますね」

美月さんと卓ちゃんが同時に頷いた。

「うん」

わたしは意識を失って、その場にくずおれた。