tzttl



最終章 梅雨寒


(2)


「ううー、ひどい目にあったー」

木曜日。僕がよれよれの状態で出社したのを見て、専務がすっ
飛んできた。

「大丈夫かい?」

「やっぱり、生まれて初めてのインフルは強烈でした。死ぬ
かと思いました」

「まあね。あれは風邪とは違うからなあ」

「迷惑をかけて済みません」

「いや、病気や怪我はしょうがないよ。重病ってわけじゃな
いからまだマシさ」

「あはは……。休んでた分は、これから取り返します」

「助かる。ああ、そうだ」

「はい?」

「月曜に、高柳んとこの元社員はどうかって話をしてただ
ろ?」

「はい。どうなりました?」

「営業と事務。一人ずつ採った。やっぱり宝の山だったよ。
あんたの見立てはほんとに優れてる」

なんか……こそばゆい。

「営業はベテランだ。うちにも出入りしてて、性格はよく分
かってる。もう五十回ってるから、再就職探したってろくな
後釜見つかんないよ。すごく焦っててね」

「でしょうね……」

「高柳んとこよりはずっと条件が悪くなるけど、パートじゃ
なくて正規の雇用だ。喜んで働きたいと言ってきた」

「なんという方ですか?」

「和田さん。仕事は出来る。技術的なやり取りもこなせる。
うちとしてはベストチョイスだね」

「よかったです。事務は?」

「そっちは若いのを入れた」

「女性ですか?」

「そう。作山さん。商業高校卒業して、すぐ高柳んとこに就
職。まだ二十二だ」

若いな。たみと同じくらいか。

「商業簿記の資格を持ってるし、パソコンも扱える。和田さ
んに話を聞いたけど、まじめでこつこつこなす子らしいから、
うちとしては安心出来る」

「なるほど」

「ただね……」

専務が、ちらっと事務室に目をやった。

……。なんとなく、専務が何を言うか予測出来た。
思わず苦笑してしまう。

「布目さんとうまくやれるか、ですよね?」

「そう。えっちゃんの『最近の若いもんは』攻撃が始まると
普通の子は保たない。前の染井は本当に使えなかったからま
だアレだったけど、今度はそうはいかない」

だよなあ……。

「うちが大会社っていうなら部署を分ければ済むこと。でも、
零細はごった煮だよ。細かい芸当は出来ない」

「ええ」

「私は、えっちゃんがその子を敵視したり、支配するような
構図は絶対に作りたくないんだ」

「はい」

「だから、弓長さんの方で策を何か考えて欲しいんだよ」

「僕がですかあ!?」

「舵取りの私が作山さんをかばえば、えっちゃんがへそを曲
げる。かと言って、えっちゃんを立てれば作山さんの逃げ場
がなくなる」

「ううー」

「そこに緩衝帯を作りたいんだよ。どうしてもね」

インフル地獄から這い上がった途端に、また別の地獄が始ま
りそうだ。でも……。

「なんとかするしかないですよね」

「そう。生産が軌道に乗れば、どうしても事務量が増えてく
る。これまでみたいなどんぶり勘定のいい加減じゃあ、保た
ないよ。ここを踏ん張らないと、未来がない!」

「はい」

「頼むね」

専務の頼むには、ものすごくどすが効いていた。

「まあ。なんにせよ、これまで引っかかってたところが解消
しそうだ。自分らの稼ぎを安定させるまでは、ごたくそ言っ
てられない。ここが踏ん張りどころさ」

「そうですね。気合い入れてかないと。サンプルは本社に送っ
たんですか?」

「早速、和田さんに持たせた。顔つなぎのこともあるからね。
向こうの反応は上々だそうだ」

「そりゃあ、井出さん渾身の逸品ですから」

「ははは! 井出が聞いたらすごく喜ぶだろさ。問題は、本
生産に入った後で、そのクオリティを維持出来るかさ」

「ですよね……」

「それにね」

メガネをぐいっと掛け直した専務が、僕ににじり寄る。

「この後、なんだよ。問題は」

「……」

「携帯は、ほぼ一年でモデルががらっと変わる。次の機種で
うちの作ったパーツを採用してもらえるかどうか分からない
んだ」

「そうか」

「次の展開をどうするかは、工場の全員で話し合って欲しい。
あんたが調整して、仕切って。その時に、志田さんと大栂く
んの発想とセンスがどうしても必要なの。下請け体質から脱
却するなら、そこでブレークスルーが要る」

「レーザーエッチャーの話はオープンにされたんですか?」

「まだ。今の受注をこなし切る目処が立ったところで切り出
す」

「分かりました」

いつ崩れるか分からない崖の上にいること。
それは、僕だけじゃない。この社にいる全員がそうなんだ。
そこに居たくなければ、崖でないところに退避するあらゆる
努力をしないとならない。

専務がエネルギッシュでタフなのは、何か夢や希望が見えて
るからじゃない。
夢や希望を口にするには、崖から落ちないようがむしゃらに
行動するしかないからだ。

たみの勤めている美容室も。僕の勤めているこの社も。
崖っぷちに居続けるしんどさから抜け出すために、大きな博
打を打ってる。

僕も……そろそろ覚悟しなければならないんだろう。
自分に延々とダメ出しし続けるんじゃなく、もっと壊れにく
い自分をこさえていかないと。

いつまでたっても崖の上はしんどい。




tz14





Can't Stop The Rain by He & She