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第一章 風邪


(2)


専務のお墨付きをもらって早引けした僕は、ドラッグストア
に寄って総合感冒薬とパン、カップ麺を買った。
ドラッグストアが食品を扱ってるのは、調子悪くてあちこち
動き回りたくない時には本当に助かる。

いつもなら、そんなに距離があると感じない一葉館への道筋。
それがものすごく遠くにあるように思える。
本格的に体調が崩れてきた……な。

僕は路側で足を止めて、道行く人たちをぼんやりと見送った。

まだ日の高い昼間にふらふらするのはみっともなくていやだっ
たけど、幸か不幸か今日は朝からずうっと雨模様だ。
傘をさして行き交う人たちは、自分の足元しか見ない。
誰も、僕に目を向ける人なんかいない。

傘で切り取られた雨のカーテン。
傘の下にだけ円柱状の僕の空間があり、その周りは雨で遮断
されている。

小さな小さな閉鎖空間。
でも、そこに閉じ込められているのは僕だけじゃない。
道行く人の誰も彼もがその円柱にパッキングされ、そのまま
どこかに流されていく。

熱で少し霞んで見える視界の向こう。
そのどこに僕の収まる空間があるっていうんだろう?

実家というシェルターを追い出されるまで、僕には僕の場所
なんかどこにもなかった。
僕の部屋は両親からの借り物で、決して僕だけの占有空間な
んかじゃない。実家を取り上げられた時に、その借り物すら
失って、僕はこんな小さな円柱の中に閉じ込められてる。

「は……」

息が白くなるほどじゃないけど……寒い。
気温だけじゃなくて、いつまでも膝を抱えたままうずくまっ
ている自分の心が薄ら寒い。

人は誰でも一人で生まれてきて、一人で世を去る。その間に
誰とどんな繋がりがあっても、それは起点と終点には影響し
ない。
そんな、どこかで聞いたような格言じみた言葉が、ふと頭を
よぎった。

僕は一人でいたいんだろうか? 一人はもう嫌なんだろうか?
たったそれだけのことが、まだはっきり分からない。

僕は、以前よりたくさんの人の中に自分を置いている。
二十数年間、自分を孤独の中へ閉じ込めていた僕がどうして
ポリシーを変えたのか。
それは、決してポジティブな理由じゃないんだ。

一葉館に逃げ込んだ僕を駆動していたのは、間違いなく恐怖
だった。全てを失って途方に暮れた状態の僕がまだ生にしが
みつこうとするなら、もう孤独の殻に閉じこもっていられな
かったからなんだ。

一人だった僕の隣にたみが来て。
僕は……恐怖でないもので孤独を遠ざけることが出来るだろ
うか? 本当に……それが可能だろうか?

心をごまかしちゃいけない。
僕にはまだ自分の場所すらない。それはどこにも見つかって
いない。

そして……これまでの生き方みたいにただ待っているだけで
は、自分の場所が見つかることは永遠にないんだろう。

「ふうっ……」

息が間違いなく熱くなってきた。
残り少ない自分の熱意を吐息で使い果たしているような気が
して、がっつりめげる。

熱でふわふわする体を小さな円柱に押し込んで。
僕は……とぼとぼと一葉館に帰った。



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「ただいま」

言ってもしょうがないセリフを、部屋の前で呟く。

平日昼間の一葉館は、みんな仕事に出ていて誰もいない。
しんと静まり返っている。

いつもは、その静けさが大好きな僕。
だけど、今はその静けさが異様に煩わしい。

それは、僕が風邪を引いて弱気になってるからか? それと
も……。
ああ、そうやってなんでもかんでも理由を探すのはもうやめ
よう。ちゃんと休息を取って、早く体調を戻さなきゃ。

腰を下ろしたら、何か食べようとする気力までなくなりそう。
シンクの前に立ったまま、さっきドラッグストアで買ってき
たパンを口の中に無理やり押し込んで、缶紅茶でなんとか飲
み込む。

まるっきり食欲がない。でも、食べないと風邪薬で胃が荒れ
ちゃう。
お茶で薬を飲むと効果が下がるんだっけ?
でも、コップに水を汲むだけの動作すら面倒くさい。
いいや、缶紅茶で。

買ってきた風邪薬の箱を開けて、中の瓶を取り出す。
ええと、一回二錠……か。

薬壜の蓋を開けようとしたけど、いつもなら簡単に出来る動
作がうまく出来ない。
なんか力が入らなくなってきた。やばいなあ……。

なんとかかんとか蓋を開けて錠剤を取り出し、口に含んで紅
茶で流しこもうとした。
でも……。

「う……ぷ」

吐き出してしまった。

「う……うー」

悪寒、頭痛、発熱……も一つおまけに吐き気。
もう最悪だあ……。

しょうがない。薬は後にしよう。とにかく今は、横になって
眠ろう。

作業服をスウェットに着替えて、ベッドと煎餅布団の間に体
を潜り込ませる。
ああ寒気がする。布団だけじゃ足りない。タオルケットを出
さなきゃ。

でも、もう動きたくない。
今はこのままでいい。

とにかく……休もう。





Rainin' by Nate Myers