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第一章 風邪


(1)


「参ったなあ……」

重い頭をなんとかかんとか持ち上げて、雨に塞がれた外の景
色をぼんやりと見る。

昨日寝る前にカーテンを引かなかったから、僕が思っていた
以上に室内の温度が下がったのかもしれない。
どうやら風邪っぽい。

咳が出たり、高熱があるわけじゃないけど。
寒気がして、頭が痛い。

あと一、二日我慢すれば休みというなら耐えられるんだけど、
生憎今日は月曜だ。
今週は、気合いで乗り切るしかなさそうだなあ……。

「ふうっ……」

ふわふわと力の入らない足を床に降ろして、湿った床の感触
に身震いする。

寒いのも暑いのもしんどいけど……この湿気はどうにも辛い。
自分の中にあるものが湿気のパッキンに包まれてしまって、
何一つスムーズに出て行かない。そんな不気味な感覚。
しかも、そいつはどこに行っても付いて回る。

「……」

僕の閉じこもり癖。
体調がいい時だって、そいつが隙あらば牙を剥こうとするの
に。こういう不調の時にろくでもない悪魔を抑え込むのは、
本当にしんどい。

ぱん! ぱん! ぱん!

両手で頬を強く叩いて、自ら気合いを入れる。

ずっと風邪の引きっぱなしになるってわけじゃないし。最初
からへたっていたんじゃ、一週間を乗り切れない。

「トシー?」

ドアの前でたみの声がした。

「どしたのー?」

安普請の一葉館じゃ、部屋で破裂音を出すとすぐに周りに知
られちゃうんだよね。とほほ。

ゆっくり部屋を横切って、ドアを開けた。

「おはよう」

「は、いいけど。なんかしんどそうだよ?」

「風邪引いたみたい」

「えっ!?」

慌てて手を伸ばしたたみが、僕の額を触る。

「……。熱はそんなでもないんだね?」

「うん。咳もないし。でも悪寒と頭痛。薬欲しいなあ」

「うー、買い置きないんだよなあ」

「帰りに買ってくる」

「分かったー」

ぱたぱたと自分の部屋に戻ったたみが、千円札を二枚持って
戻ってきた。

「レシートもらっといてね」

「うん」

「仕事は?」

「行くよ。今は、ちょっと休めないんだ。高熱が出て動けな
いとかだと別だけどさ。そういうわけじゃないし」

「……気をつけてね」

「うん。この後すぐ出る」

「あ、さっきの音は?」

僕は、思わず苦笑する。

「自分に気合い入れた音。今足を止めるわけにいかないから」

心配そうな顔のたみの背中を押して、部屋に帰らせる。

「大丈夫さ」



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(ムラサキツユクサ)



「おはようございます。専務」

「ああ、弓長さん、おはよう。あれ?」

僕の作った工程表をチェックしていた専務が、メガネを掛け
直して僕の顔を覗き込んだ。

「風邪引いた?」

「うわ……分かります?」

「顔が赤いよ。咳とかは?」

「咳は出てないんですけど、寒気と頭痛が」

「無理しなさんなよ。あんたは、うちに来てからずっとノン
ストップで走ってるからね」

「はい……」

「今日は半日で上がんなさい。工程表はちゃんと出来てるし、
新入りの二人も長野さんとこの派遣さんも、ちゃっちゃと仕
事をこなしてくれてる。あんたは土曜にも来てくれてるから、
それと振り替えるさ」

ああ……ほっとする。

「サンプル出荷が終わって本社のチェックをクリアしたら、
そこから先は本格生産だ。死に物狂いで仕事に食いつかない
となんない。それまでに体調戻しておいて」

「助かります。じゃあ、午後は引き上げます」

「そうして」

専務が、ほおっと大きく息をついた。

「ぎりぎりで回してると、こういうところにハネが来る。現
場だけじゃなくて、私らの工程表にも余裕を持たせておかな
いとだめだな」

僕らの工程表……か。
そうか、そういうのも要るんだな。

専務の運営方針は社長のよりもずっと緻密なんだと思うけど、
だからと言って専務に切れる札がいっぱいあるわけじゃない。
小さな会社だというリミットが、いろんなところにしわ寄せ
を持ってきちゃう。

専務に迷惑は掛けたくなかったけど……。
でも、僕がいっぱいいっぱいだったってことを分かってくれ
て、本当にほっとする。

「明日までには、なんとか回復させます」

「そうだったらいいね。でも、熱が上がって咳が出て来るよ
うだったら、無理しないで休んで」

「……はい」

「私らにうつされると、死活問題になるから」

あ……そっちの方か。

半分はほっとして。半分はがっかりして。
それでも、ここにいる以上はこなせることをこなしておこう
と思って。

僕は事務机の上のノートパソコンを開いた。

「あ、専務」

「なに?」

「事務と営業の後補充は、目処が立ちそうですか?」

ぎゅいっ!
専務の眉の間にくっきりと皺が寄った。

「難しいわ」

やっぱりか……。

「ちょっとね、最初が順調に行き過ぎたの。仕事をさくさく
こなせるあんたが来て、まじめで若くて馬力のある志田さん
と大栂くんが来て。こんな幸運は、うちみたいな零細には滅
多にないよ。出足に恵まれ過ぎた」

「……」

「来て欲しいやつには足元を見られ、どうしても採ってくれっ
てやつは訳ありばかり。訳があっても、あんたみたいに向上
心があれば別さ。だけど、うちに逃げ込まれるのは困る」

そうだよなあ。他人事じゃない。僕も、しっかり自分に言い
聞かせておかないと。あ、そうだ……。

「専務、高柳さんとこの元社員さんとかはどうですか?」

「!!」

専務が、ぎょっとしたように飛び退った。

「あ、あんた……」

「いや、あのおっさん、いきなり会社を畳んじゃったでしょ? 
いきなり放り出された社員さんの中には、まだ次の職が決まっ
てない優秀な人がいるんじゃないかなって」

「うーん、あんたはほんとによく見てるね。いい目の付け所
だ。私も、そこはぽっかり穴だったわ」

ぐいっと腕を組んだ専務が、目を瞑って思案する。

「確かにね。あそこの社員はうちの雰囲気も製品も知ってる。
仕事の引き継ぎに無駄なエネルギーを注がなくて済む。そう
いう遺産を上手に使わないのは損だってことか……」

「高柳さんの息がかかってると厄介なんで、見極めには慎重
さが要ると思いますけど」

「そうだね。でもダイヤの原石がそこにあるなら、利用しな
いのは損だ」

にやりと笑った専務が、いつもの不敵な雰囲気に戻った。

「なあ、弓長さん」

「はい?」

「今日はもう帰っていいよ。今のは給料のうちだ。お釣りが
くる」

「あはは……」

うん。助かった。だんだん……熱が上がってきたみたいだか
ら。





Rainin' by Rita Pavone