《ショートショート 0699》


『墨絵』


「探幽斎……か」

もとより泡沫絵師の儂には遥かに遠き存在じゃが、神童と呼
ばれるだけあって、その筆致は噂と寸部違わず神々しいほど
であった。
幽谷の霧が絵から漂い出るような別天。
儂が如き凡庸な絵師には、真似ることすら能わぬ。

儂は筆を握ったまま、白紙の前で呻吟を繰り返した。

何千、何万と模写を繰り返したところで、才が無ければ絵は
描けぬ。
心で線を引けなぞと言われたところで、その心がとんと分か
らぬのでは、せいぜい田舎寺の破れ襖の穴隠しで児戯に等し
い絵を描くのがとこじゃ。

「いかん。気が乗らぬ」

いや、気が乗らぬのではない。
儂には、乗せる気が最初から備わっておらぬ。

「ははっ!」

自嘲した儂は筆を置いて座を崩し、濡れ縁に出てどすんと腰
を下ろした。
散りかけの梅の花をついばみに来た目白が、枝の間に見え隠
れしている。

そうよの。見える物は描きようがある。
儂とて絵師の端くれじゃ。梅に目白を描けと言われれば、そ
れなりのものは描ける。
じゃが、見たこともない幽谷や虎、龍をまるでそこにあるか
のように描けというのは、儂には無体なことじゃ。

うらうらと日差しを浴びながら惚けておった儂の背後で、女
房の声がした。

「あなた」

「菊か。なんじゃ」

「陽泉(ようぜん)さんがいらっしゃいましたよ?」

「ふむ」

陽泉も、儂と変わらぬ泡沫絵師じゃ。
多分、陽泉の方が儂よりは幾らか絵心があるのだろう。
だが、あやつには欲がない。金に対する欲だけでなく、絵を
上手くしようとする欲も乏しい。
描きたいものを好きなように描き、欲しいと言った客に端値
で呉れてやる。斯様な生き方をしている。

それは羨ましくも、疎ましくもある。

儂は細かく描き込むのが好きで、陽泉のような筆任せが出来
ぬ。根を詰める割には小じんまりした絵になってしまう故、
女房の手がける表具でごまかしておるのだ。
絵が売れても、儂の絵よりも女房の表具の出来を褒められて
いるようで、儂はどうにも面白くない。

それでも、女房の支えがある故に拙い絵でも買うてくれる者
がいる。菊に、声高に文句を言う訳には行かぬ。

儂は、ぱんと膝を叩いて立ち、梅に背を向けた。

「今年は……描き損ねたな」


           -=*=-


「よう、柳邨(りゅうそん)」

「おう」

「景気の悪い面をするな」

「この面は生まれつきじゃ。今更変えられぬわ」

「はははっ!」

ずかずかと庵に踏み込んで来た陽泉は、広げられたままの白
紙を見て首を傾げた。

「御主にしては珍しいのう。儂とちごうて、こつこつと筆を
繰るのに」

「ちと気が削げての」

「ほ?」

「探幽斎の絵を見てしもうてな」

「なんじゃなんじゃ。斯様な鬼才と儂らのような田舎爺を比
べたところで、詮方ないじゃろうが」

「まあな……」

「まあよい。それより」

「うむ」

「御主、安徳寺の襖絵を承けたのか?」

「頼まれてはおるが……」

「気が進まぬのか?」

「龍を描けとよ」

「ほ」



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儂は、途方に暮れていた。
見たこともない龍を、邪を祓うが如き勢いで描けと言われて
ものう……。
断れるものならば断りたいが、和尚には何くれと世話になっ
ておるからな。

俯いた儂をじろじろ見回しておった陽泉が、からりと言い放っ
た。

「のう、柳邨」

「うん?」

「雪舟禅師の鼠の話を知っておるか?」

「おう」

「あんなのは作り話じゃ」

「……」

「如何な名人の作とは言え、描いた物が絵を抜け出るなどと
いう話は聞いたことがない」

「……そうじゃな」

「儂らであろうが、雪舟、探幽であろうが。何を描いたとて
元は墨よ」

陽泉は、紙の横の硯を指差した。

「ならば、御主の気の済むよう墨を塗りたくればよい。儂は、
そう思うがな」

おもむろに立ち上がった陽泉は、また来ると言い残して庵を
出た。


           -=*=-


その夜。
儂は夢を見た。



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儂は、一面に白波の立つ荒海を目の当たりにしていた。
鼠色の雲が幾重にも垂れ込め、海も色を失って空との境が判
然としなかった。

さながら墨絵のようじゃ、と。
そう思うた。

と。
波間から大きな鯛が跳ね出して、儂の足下にばたりと落ちた。
それはそれは見事な鯛じゃったが、桜色ではなく、海や空と
変わらぬ墨の色じゃ。
何気に手に取った鯛は、すぐに皿に盛られた旨そうな刺身に
変わり、儂は夢中で刺身を口に含んだ。

「ぺっ! ぺぺっ!」

それは。
甘い鯛の身ではなく。
墨の味が……した。


           -=*=-


何故に斯様な夢を見たのかは分からぬ。

じゃが、儂の中では全ての物が墨の海に溺れておる。
硯の墨の中から。墨を含んだ筆の先から。
未だ何一つ出て来れぬのであろう。儂自身すら、な。

目が覚めた時に口の中に残っていた、生臭い墨の味。
それが鮮明に蘇った。

ああ、そうじゃな。
儂は未だ何も描けておらぬ。

白紙を前に端座し、目を瞑ってしばし想を練っておったが、
菊の声で我に返った。

「あなた」

「うむ」

「和尚さんにはお返事なさったの?」

「した。儂には龍は無理じゃとな」

「ふふ」

「儂は、見たことのない物は上手く描けぬ。鹿で勘弁してく
れと言うた」

「和尚さんは応じてくださったの?」

「仕方ないと抜かしよったわ」

「ほほほ」

「まあ、鹿ならば儂にも描けるじゃろう」

胆に気を込め、筆に墨を含み、ずっと白いままであった紙の
上に下ろす。

確かに梅の花は散った。目白も去った。
じゃが、儂の手にしておる筆の墨。
その中の梅と目白は、未だ出口を探しておる。

済まんな。儂が我が侭を言うた。言い過ぎた。
今、其処から出してやるからの。待っておれ。

枝をしかと掴み梅の花をついばむ目白が、ついと紙の上に現
れた。

菊は、儂の筆の運びをじっと見守っていた。


           -=*=-


「よう、柳邨」

「なんじゃ」

「いい絵ではないか」

「ははは。和尚にもそう言われた。世辞でも嬉しいのう」

儂の描いた梅と目白の絵。
女房がいたく気に入り、きちんと裏を打って庵に飾った。

「菊のやつ。大袈裟に家宝にするとか言いよってから」

「いや」

常日頃何をも笑い飛ばす陽泉が、食い入るように儂の絵を
見ながらぼそりと呟いた。

「いや、これは紛れもなく宝じゃ」

「ほ?」

「この梅と目白。墨の味がせぬ」




 注:
 探幽斎=狩野探幽(1602-1674)。江戸時代初期の狩野派の天才画家。
 雪舟(1420-1506)は、室町時代の禅僧で水墨画家。経を読まず絵ばかり描いていた幼少時に、それを咎められて柱に縛り付けられたが、自分の涙を墨代わりにして足の指で鼠の絵を描き、師を驚かせたという逸話が有名。しかし、後世の作り話であるとする説もある。





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