それは、ほんの始まりに過ぎないの。
手渡したものは、これから少しずつ光り始める。

だからね。
それをしっかり暖めよう。
それが命を宿すまで。

全てはそこから始まる。
全ては。
そこから生まれるの。




《第十六話 くたばれ、ばれんたいん!》

(3)



あの機械。
すっごい高いらすぃ。

わたしが、残りの高校生活のお昼を全部コーヒー牛乳だ
けで我慢しても、弁償しきれないらすぃ。

むぅ。
やっちまった……。

まあ、でも。
お金で命が拾えるんなら、その方がいい。
ずーーっといい。

わたしは。
お姉さんやご両親、先生や看護師さんにぺこぺこと頭を
下げられて。
まるで、病院のいいんちょにでもなったような気分で、
ゆっくり病室を後にした。

でも……脳波計の請求書はうちに送られて来るんだろう
なー。
お母さんが、食卓に塩だけ置く日が来るのかもしんない。
とほほほほー。

病院を出たわたしは、少し緩んできた冬空を見上げた。
泣き腫らした目に、少しベールのかかった日差しは優しい。

辺りを見回すと、昼ご飯食べに行ってたOLさんたちが、
リボンのかかったチョコを手に、ぺちゃくちゃしゃべり
ながら歩ってる。

うん。
まだ午後の部もあるもんね。

腐ってもバレンタインかあ。
わたしのプレゼントは、とりあえず受け取ってもらえた
みたいだから、それでいいってことにしよう。

ああ、腹減ったー。

バス停で、しょーこからもらったチョコがあったのに気
付いた。

「うむうむ。持つべきものはトモダチだなやー。ありが
たや、ありがたや」

包装を解いたら、中からハート型の手作りチョコクッ
キーが出てきた。
うれしいなあ……。

ごち!

ほくほく顔で、ぽんと口に放り込む。

「……」

うむ。
その。
なんだな。

「しょーこ。頼むから塩と砂糖は間違えんでくで」


        -=*=-


学校に戻って午後の授業を受けられる時間だったけど、
さすがに恥ずぃ。

いいよね。
今日は、もう。

平日だけど、バレンタインだからか街中には人がいっぱ
いあふれてる。
今日だったら制服着てても、人波に紛れて行けるかな?

コンビニでパンとコーヒー牛乳を買って、アズールに行
く。なんとなく、そこならほっとできるかなって思って。

ドアの前に立ったら、バイオリンの音が漏れてきた。
きっとおばさんが練習しているんだろう。

うん。
ほんとにすごいなーと思う。

「こんにちはー」

ドアを開けたら、汗をだらだら流してるおばさんがこっ
ちを向いた。

「あら、みゆちゃん、学校どしたの?」

「今日はバレンタインなので、ほとんど授業になってま
せん」

「こらこら、さぼってっ!」

怒られちった。

でも、おばさんは笑顔だった。

「なんか、いいことあったんでしょ?」

えへへ。
笑ってごまかす。

弓を下ろしたおばさんに聞かれた。

「想いは届いた?」

「はいっ!」

「そりゃあよかった。じゃあ、ごほうびね」

にこっと笑ったおばさんが、ラジカセのボタンを押して、
弓を構えた。

「ベートーベンのバイオリンソナタ第5番。春」

青い空間の中を漂う音。
わたしは椅子の背中を抱いて、じっとその音に浸った。

これまでと違う。
暖かい涙を流しながら。


        -=*=-


「たーだいまー」

「おかえりー」

兄貴は、中村さんと食事にでも行ったかな。
ホワイトデーまで待てるような兄貴じゃないよ。
きっとこの日のためにがっつりバイトして、外メシ代を
稼いでたんでしょ。

がんばってねい、兄貴。

「ねえ、みゆ」

「なにい?」

「昨日の夜、部屋で暴れてたでしょ。満月でも見たの?」

「狼男じゃあるまいしぃ」

「じゃあ、豚女か?」

くっそぉ。
本当に身内だとよーしゃないね。

「ちゃうよ。ちぃと腹立つことがあっただけ」

「ちぃとなら、暴れるのもちぃとにしといてよ。後片付
けすんの大変なんだから」

「そんなん頼んでまへーん」

「そゆことは、自分で部屋を掃除してから言うことねー、
豚女」

ぐぎぎぎ。
言い返せんのが、とことんょゎょゎだん。

「ったく、どうしてわたしから、こんながさつそのもん
の娘が生まれちゃったんだろ?」

お母さま。
オコトバですが、間違いなくあなたのDNAのせいだと
思われます。

「どうせ、今日だって誰にもチョコ上げられなかったん
でしょ?」

「うん? チョコはあげなかったけど、あげてきたもの
はあるよ」

「ほへ?」

お母さんが、びっくり顔をする。

「バレンタインにあんたからなにかもらうなんて、そん
な奇特な男の子、見たことも聞いたこともないけど」

これだよ。ったく。

「まあ世の中広いですからねぃ」

お母さんが、じとーっとわたしを見る。

「純潔とか言わないよね?」

ちょっと! 何年わたしの親やってんのよ、お母さん!

「そーゆー、ちょー脱力するギャグはヤメテ」

「そーよねー。で、何あげたの?」

わたしはカバンをひょいと抱えて、階段に歩ってった。
部屋ぁ片付けなきゃ、後でまた突っ込まれるしぃ。

「……勇気」


        -=*=-


「あーあ」

我ながら、よくここまでぶちまかしたにゃあ。
自分にこんなぱっしょんがあるなんて、思ってもみなかっ
たもん。

床中に散らばった本や教科書を拾って、机と本棚に戻す。
鉛筆や小物はあっちこっちに入り込んじゃってる。
回収できるものだけにしとこ。
壊れちゃったのもあるし。

わたしがどんなに部屋の中をぐっちゃぐちゃにしても。
それは片付ければ元に戻る。
少しの引っ掻き傷とがらくたと、そしてもやもやした気
持ちは残るかもしれないけど。

元に……戻るの。

でもね。
なくなった命は、元に戻らない。
それはやり直しってわけにはいかないよね。

わたしは。
今日、マサトにお礼することができたかな?

わたしを変えてくれたマサトのいたずら。
ほんとはね、ありがとうって言いたかった。
わたしにいっぱいチャンスをくれて、ありがとうって言
いたかった。

でもね。
そしたらマサトは、自己満足の優しさだけを、孵らない
卵みたいに抱いたまま逝っちゃう。

だから、わたしは心を鬼にした。
世界中のバレンタインを待ってる女の子を全員敵に回し
てもいいから、バレンタインの奇跡なんかぶっ壊した
かった。

マサトが自分の足で、こんちくしょうって歯をくいしば
りながら欲しいものを取りにいく。
そうしないと、何にももらえないよ?
奇跡なんかどっこにもないんだよ?

わたしがバカ絶叫に込めた気持ち。

……分かってくれたかなあ。

ベッドの布団をめくったら、金曜日に握りしめて寝たコ
インが出て来た。

わたしはそれを持って、部屋の窓を開ける。
流れ込んでくる冷気。

わたしは道路に向かって、そのコインを力いっぱい投げた。
澄んだ暗闇の中で、小さくちぃんと音がした。

あれは魔法のコインじゃない。
単なるスロットのコイン。
百円玉の代わりにも使えない。
うっかり高校の売店で出したら、怒られちゃうもん。

わたしは窓をぱたんと閉めて、カーテンを引いた。

さあ。
みんなにメールを流そう。


『ミッション完了! 無事生還! 応援ありがとう!』





My Valentine by Martina McBride & Jim Brickman