《第三季 夏 トリニティ》

[二日目 午前]


うふふー。
うふふー。
うふふふふー。

わたしは。
とっても嬉しくて。
ベッドの上をころころと転がり回っていた。

今日も天気は良さそう。
海鳥たちが騒がしく鳴いているのも、気にならない。

石けん!
石けんよ!

しかも、ちゃんと色がついてて、いい匂いがする。
ええと、マンネンロウって言ってたよね?
クーベったら、どこにそんなのを隠してたのかしら?

そんなことはどうでもいい。

実り始めたベリーの甘酸っぱさ。
体をきれいにできる喜び。
ベッドで身を縮めなくても済む暖かさ。

夏は好き!
大好き!

わたしはベッドから飛び降りて部屋を走り回り、それか
ら髪を結わえて泉まで階段を駆け下りた。

沐浴しようと思ったら、桶に何か草が活けてある。
あ、いい匂い!

これは間違いなく、クーベが準備してくれてたんだろう。
昨日のマンネンロウとは違うけど、すっきりしたいい匂
いがする。

服を脱いで、水を浴びる。
顔と髪を念入りに洗って、最後に桶の水を頭から被る。

うわあ!

すーっとする。
気持ちいい!

今日は一日この香りに包まれて過ごせると思うと、本当
に浮き浮きする。

タオルで体を拭いて、服を着る。
昨日の外仕事用の服は、生臭い匂いがついちゃったから
着たくない。
でも、これからもそれを着ての仕事はいっぱいある。

その覚悟をしなさい。
クーベは、そうやってわたしを叱り。
そのあとフォローしてくれる。

クーベの言ってることはもっともだ。
生きるってこと。
それに必要なことをするっていうのは、きれい事じゃない。

わたしはそれを、クーベやダグに任せきりにしてきたの
かもしれない。
好き嫌いでは計れない世界。
そこにわたしがいるっていうこと。
それを……。

自覚しないとね。

うふふー。
でも、今までなかった楽しみが増えることは嬉しい。
クーベに感謝、感謝ー。

わたしは、今度は一気に階段を駆け上ってダイニングに
行った。

「クーベ、ダグ、おはよー」

部屋にいたのはクーベだけだった。

「おはよう、リファ。朝食にするから、ダグを起こして
きて」

「へえ、珍しい。ダグがまだ寝てるの?」

「ああ、昨日の夜は何か根を詰めてたのかな?」

クーベも知らないんだ。

わたしは、ダグを呼びに行こうとして、ふとさっきのこ
とを思い出した。

「ねえ、クーベ。泉のところにすごくいい匂いの草を活
けてくれたんでしょ?」

「気持ちいいだろう? ハマスゲっていう草の根を潰し
て溶かしてあるんだ」

「ありがとう。その草、この島にはいっぱいあるの?」

「あるよ。あとで教える」

「わあい!」

わたしは、また走って階段を上る。
ダグの部屋の戸を叩く。

とんとん!

「おう」

返事が聞こえた。
寝ていたって感じじゃないなあ。

「朝ご飯だよ」

「分かってる。今行く」

静かな返事だ。

わたしがダイニングに戻ってすぐ。
重い足音とともにダグが現れた。
眠そうだ。

「ダグ、おはよう。眠そうだな。夜更かししたのか?」

「ちょいとな。普段使わないアタマを久しぶりにびっし
り使ったんで、ぐったりだ」

ダグは自分自身のことを茶化さないから、本当に何かを
考え続けたんだろう。

目を擦ったダグが、鼻を鳴らす。

「何か、いい匂いがするな」

「でしょ? クーベが香草を採って来てくれて。それを
溶かした水で髪を洗ったの」

「ああ、その匂いか。うん、いい香りだ。すっきりする」

ダグがひげ面をほころばせた。

「リファ、運ぶのを手伝ってくれ」

「はあい!」

クーベから差し出されたお皿を受け取って、びっくりする。

「ねえ、クーベ。これなあに?」

「ああ、目玉焼きだよ。朝早くに、海鳥の卵を採りに行っ
たんだ」

そうか。
この島では初めてだけど。
わたしは、これをどこかで見た記憶がある。

目玉焼きをじっと見ていたわたしを、クーベがたしなめた。

「冷めちゃうから、さっさと運んでくれ」

「はーい」

鳥の卵。
昨日のアザラシのお肉はちょっと臭かったけど、卵には
そんな癖はなくて。
とってもおいしい。

でも、ダグもクーベも食べ慣れているのか、特においし
いということは言わない。

淡々と食事が終わって。
クーベがダグに聞いた。

「今日は船の方の作業をするのか?」

ダグはそれに答えず、じっと窓の外を見つめていた。
それから、ゆっくり顔を振って言った。

「今日は、室内(なか)で休む」

わたしもクーベも、びっくりする。

「おいおい、体調でも崩したのか?」

ダグが笑って否定する。

「そんなんじゃないよ。ちょいと微妙な段階に入ったんだ」

「微妙な段階……って?」

ふっと息を吐いたダグが、ゆっくり立ち上がりながら答
える。

「見たところ。船の損傷は思ったよりも少ない。頑丈な
船だったようだ」

「へえ……」

「燃料も、まあなんとかなりそうだ」

「そうなの?」

「ああ。ただな……」

自嘲の混じった笑いが、ダグの口から漏れた。

「俺のなくした記憶の中には、あの船の操作の仕方も
入ってるんだよ」

あっ!

わたしとクーベが顔を見合わせる。

「あの船についての記憶が全くないわけじゃない。俺が
あの船を俺のものだと認識できてるんだからな。
でも、操作を全ては思い出せないってことは、その中に
俺のヤバい記憶が混じっているってことさ」

「……」

「そういうところは、この島の影響が律儀で顕著なんだよ」

「そらあ……」

クーベが、どう言ったものかという感じで絶句する。

「でも、俺はそれはなんとかなると思ってる。ここ数日
は記憶を引っ張り出すのに、ずっと考え込んでたのさ」

「思い出せるの?」

思わず聞き返してしまう。
わたしの顔を見たダグが、にやっと笑った。

「多分な。時間は少々かかるだろうが、思い出せるだろう」

「どうして……そんな断言できるの?」

「そうだな」

もう一度わたしから目線を切って、ダグは海を見つめた。

「隠されている記憶は、大きく分けて二種類あるんだよ」

「え? 二種類?」

「そう」

ダグは真っ直ぐわたしの目を見つめた。

「一つは感情の記憶。喜怒哀楽につながるもの。もう一
つは単純な知識だ」

「……」

「俺はここに来てから、この辺りを航行する船に関して
の知識を全部クーベに話してる。それは、俺がもともと
持っていた記憶。全部ではないが、折りに触れて思い出
してきた」

「だが、自分の出自や家族、仕事。そういうものはどん
なに努力しても全く思い出せない。それらには、俺の感
情が強く絡んでいるからだ」

ダグが椅子に戻って座り、ラジオのスイッチを入れた。

ぱちん。

小さな音で、何かの声が流れ始める。
わたしの理解できない言葉。

「俺があの船の動かし方を思い出すには、感情に絡まな
い方の記憶を根気良く引っ張り出すしかない。それには
時間がかかるんだよ」

ダグは。
わたしがいつも見ていた姿勢を取って。
じっとラジオに聞き入り始めた。

眉間にしわを寄せて。
身じろぎもせず。





Quero Sim by Paula Fernandes