谷川俊太郎さんのおはなしを聴きにいってきたのよ、と
息子に言ったら
「すっげえじゃん。国語の教科書に載ってるヒトだよね。」との反応が。
愚息でさえも、そのお名前を存じ上げてる谷川さんの詩作品は
たいてい、中学か高校の国語の教科書の冒頭部分に教材として
掲載されておりますね。
なので、生まれてこのかた「詩」などという文芸作品とは
ほとんど無縁で暮らしてきた、多くの少年少女たちにとって
その名を知る、稀少な詩人のおひとりと言って
過言ではないのでしょう。
対談のなかで、その「教科書に載ってる」といったトコロから
以前に出版社の方より、教材となっている谷川さんの詩作品で
テスト問題を作成したものを頂いた時のことを
お話しくださってました。
谷川さん、試しにそのテスト問題をご自身で
解いてみたそうな。
「そしたらね。ナンと僕、0点だったんですよ!
自分の作った詩についてのテストなのにさ。」
そんなバカな~~と思ってしまいますが
谷川さん曰く、
「問題の中にね、作者はこの詩をどのような気持ちで作ったのか、
その理由を述べよ、なんてのがあってね。
そんなもん、分かるワケないじゃん!
作った本人だって間違えるんだからさ。」
「あのね。詩って難しいの。
答えはひとつであるわけないから、よって正解はないの。
読む人それぞれ、思うコトも感じるコトも違うでしょ。
それでいいの。」
「こういうのって、日本だけかと思ってたらそうでもないみたい。
イギリスの友だち(詩人)に、この話をしたら大笑いされてね。
おい、お前は0点だったのか?
オレも自分の詩が問題になってるテストを解いてみたけれど
30点も取れたぞ!大したもんだろうーー。って
自慢されちゃったことあるの。
つまり、学校教育で詩を教えて点数を競うってコト自体が
ムリなんですよ。」
そうそう。
国語嫌いに陥る、大きな原因のひとつですよね。
谷川さんも、そのことを指摘しておられた。
詩と親しむことと、テストでよいお点を取ることとは
根本的に違うのだよ、と。
谷川俊太郎さんも、国語のテストがちょっと苦手なんですって。。。と
そんな話を息子にしてみたら
「へえ、やっぱりそうなのかねえ~」と
ちょっと嬉しそうな顔してました。
詩、というとなんとなく
日頃あまり馴染みがない、というか
どこから「入口」を探せばよいのか迷ってる人に
アドバイスはありませんか?の問いに
谷川さんは、このようにお答えしておられました。
「何でもいいから、たった1編、
自分の大好きな詩に巡りあうこと。そこから扉が開くんです。」
「詩集、というとなんだか照れくさいような、敷居が高いような気が
するのかもしれません。
出版物としての詩集は確かに、そんなにたくさん売れるものでもないし。
でも、現代人は活字となった詩集とはまた異なる<詩情>というものを
強烈に求めているのだと思います。
映像やファッション、コミックなど今は<詩情>溢れた優れた作品が
たくさん出て来ていますからね。
言葉や文字で表現されたものより、受け取りやすいからでしょう。」
「詩、というのは飽くまで個と個のやりとりなんです。
その詩を読んだ人の、生きてきた過程や環境やその人の個性と
相まって、消化し吸収されていつしか
その人のモノになっていく。
だからね、ホントだったらそんなに多くの人たちに
作品を売らなくてもいいんだよ。
商売としたら、そんなわけにもいかないんだけど。
僕は本来、詩なんてのは<小商い>でいいんだ、って思ってる。」
「マスメディア、ってのをアテにしない。
万人に受け入れられる、なんてモノは本来ありえない。
自分がこれ、いいな。と感じたものを発して
誰かが、いいな。と受け取ってくれればいい。
たくさん売れればソレはそれで嬉しいけれど
<売れる>ってことと、その作品自体の在り方とは
別物なんだろうな。きっと。」
まあ、そんなようなお話をされていたなあーーと
断片的でうろ憶えな言葉の端々を
切って貼って繋げてみました。
ひとつの言葉を発端に、目の前の小さな世界が
どんどんと広がっていく。
短いセンテンスや単語、それらの包含するあらゆる意味合いや由来、
音韻やリズムなど、あらゆる方面、角度、時間すらも越えて
膨らんだイメージを携え、詩は人の心のうちで
育ち、広がってゆくものなのでしょう。
あなた方の暮らしのうちでも
ほんの身近に、ある日とっておきの「一編の詩」に出会う機会が
転がっているんだよ。。。と
谷川さんは言って下さったんだろうなあ~~。
いいお話が聴けてよかったです。
音楽畑の方とではない、こういう対談のお仕事をまさやんには
今後、どんどんやっていただきたいなー。