普段からそれほどスポーツに
強い感心があるわけではない。
平昌オリンピックも
ニュースの中で紹介される
ダイジェスト版を見てるくらいだった。

 

それでも、
選手達の研ぎ澄まされた体から
発される情報の光みたいなもの
目を奪われてしまう
ことが
度々あった。

 

確かに、
メダルを取るような
パフォーマンスをするような時ほど
そういう雰囲気を醸しているように思えた。


金銀のメダルを取った
男子フィギュアの
羽生結弦宇野昌磨選手の演技なんかにも
それを感じることが出来たが、
私が特に
引き込まれたのが
日本のスピードスケート女子団体追い抜き
(パシュート)だ。

 


高木美帆佐藤綾乃高木菜那選手の三人が
ムカデのように
縦に連なって滑る姿に
なんとも言えない不思議な魅力を
感じでとても引き付けられた。



なんなのだろう?
と思って考えてみる。

まず思い浮かぶのが

単純に美しい

ということだ。

先頭の選手が
風避けになって
滑っていく。

そのために、
三人はリズムや呼吸を
合わせて
「からだ」を同調させていく。


すると、
三人の人間が消えて
一匹の「いきもの」が
現れる。


この「いきもの」は
ムカデのように
沢山の手足を
うねらせて
氷の上を滑っていく。

これは
ヒョウやパイソンが
走る姿が美しいように
美しく思えた。

けれども、
これは単なる野生動物では
ないことも確かだ。

人間という頭デッカチな
一人ひとり個性強い「いきもの」が
高度なコミュニケーションを
取ることによって生まれた
「いきもの」なのだ。

そうやって
もう一度見直すと
先頭の人が切った風を
二番手の人が受け取って
三番手の人へとリレーして
そこへ情報をこめて
やりとりしている
かのようにみえる。


そして、全体として
みると
風や空気を
切り裂きながら
乱流を回避しながら
突き進んでいく
まるで一匹の「いきもの」が
現れてきている
かのように見えるのだ。

この「美しい」というのは
自然を美しいと感じるのと同じだ。

けれども、同時に人間の「からだ」が
何か意志のようなものをもって
何か統一された完成品ようなものを
自分達の「からだ」を
使って作ってしまうという
営為の美しさ
でもあるのだと思う。

多分、
見てる方の私達の「からだ」は
そこまで感じてるのではないかと思う。


ここで疑問がちらつく。

「見てるだけの自分が
関係もしていない
体験すらしたことがない
このような事態に
どうやって同調してしまうのだろう?


多分それは、
自分の「からだ」を
選手の「からだ」へと移していく

―ということを介してだ。

体験していないはずのことを
外側から見るだけで
その何百分の一だけでも
追体験してしまう「からだ」。


「からだ」はスマホのように
情報を発信して
さらに受け取ることが
出来るメディアのようなもの
として働いているのだと思う。



元々、スポーツは、
直接、社会に役立つ類のものではものではない。

【お金を稼げないことにに意味はない】とか
【社会に必要されること】とか
【人様の役に立ってこそ一人前】とかいう世界とは
全く反対の世界だ

もし本当に人に役立ちたいなら
有り余る体力を
直接人助けに使った方が合理的だ。

社会人としてお金を稼ぐんだったら
地道に直接、人の必要を満たすことをして
お金を稼ぐ法がまっとうだ。

けれども、
スポーツや芸術は


【役に立たない】
【無駄な行為】


であることによって
人間の「からだ」を照らし出し
そのことによって
逆立ちした必要を満たしている
と言ってもいいのかもしれない。

 


 

 

ポチ↓をよろしくお願いします。
兵庫県西宮市 ブログランキングへ

↓もっと詳しく知りたい方はご相談下さい

  「からだ」の声を聴こう!!
    東洋医学に基づいた
  やさしい施術を行います!
あなたに合わせた養生プランをねります!
みやざき鍼・灸~阪神 西宮 鍼灸院~