646. 論語講師用副読本(24)人生・処世の為の論語⑨ 年四十にして悪まるるはⅱ | 論語ブログ

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論語講師用副読本(24


人生・処世の為の論語⑨ 年四十にして悪まるるはⅱ


子曰わく、後生(こうせい)畏(おそ)るべし。焉(いずく)んぞ来者(らいしゃ)の今に如(し)かざるを知らんや。

    四十五十にして聞くこと無くんば、斯(こ)れ亦(また)畏(おそ)るるに足らざるのみ。

 子罕第九  仮名論語122頁7行目。

 伊與田先生の解釈です。

先師が言われた。「青年は畏れなければならない。将来彼等が今のわれわれに及ばないと誰が言い得ようか。ところが四十五十になっても謙虚に学ぶことのないような者はもう畏れるには足らないよ」

 聞く 問学求道をいう。又聞こゆるとよんで、世に名の聞こえるという説もある。


 昨日の続きです。

「四十五十にして聞くこと無くんば、斯(こ)れ亦(また)畏(おそ)るるに足らざるのみ」・・・。現役と称しながら、四十五十になっても、まだその名が聞こえないようならば、畏るるに足りない。

 四十歳、五十歳にもなって、これはという特徴がないような者は、恐れるに足らない。なんとも手厳しい言葉ですが、これが人間社会の現実でしょう。特にビジネスの世界では、四十代ともなれば「これに関してはあの男だ」という定評ができるくらいの特徴をもたなければいけません。

 凡人なら凡人なりに磨きがかかる年代、それが四十、五十代なのです。

 四十になったら自分の顔を持てなどと言われますが、同じ考え方でしょう。自分自身に対しても、社会に対しても、きっちりした責任を感じなければならないのがこの年代です。

 ただし、この年代を豊かなものにするための基礎は三十代に作られます。室町時代の能役者世阿弥元清は、四十代を過ぎても消えない役者の色気こそ本当の色気であるとし、そのためには四十代以前の盛りの時の修練が決め手になると言っています。

 人間は常に進歩の過程にある、と孔子が信じていた事を、よく示す言葉です。しかし孔子は同時に、無条件に楽観的ではありませんでした。「後生畏るべし」という原則に、四十五十になっても、何の名声を持たない人間、そういう者は、一向に畏敬に値しません。四十という年齢が、その人についての結論を示す時期であることは、次の章です。


子曰わく、年四十にして悪(にく)まるるは、其れ終らんのみ。

 陽貨第十七  仮名論語2787行目。

 伊與田先生の解釈です。

先師が言われた。「年が四十にもなって毛嫌いされたり、にくまれたりする者は、先の見込みはないだろうね」


四十にもなって人に憎まれるようでは、もう終わってるわ。

もっとも若い憎まれ男ならまだ直しがききます、もっと年をとった憎まれ者だったら敬遠しておけばいいのですが、四十代の憎まれ男は働き盛りですし、社会の中心になっているだけに、手がつけられないようです。

この章は、若い時に学問に励まなければ、いたずらに年を取るだけで、つまらない棄材となる事を戒めた章です。

世の中の人が過去のみを振り返り、後進を軽んじていたのでは、世の中の進歩の邪魔になります。それと同時に若い人がその若い時代に努力勉励しなければ、名をあげるどころか社会の落伍者となってしまいます。未来があるのが若い人の生命で、努力し続けてやめなければ必ず名を成すものです。


つづく

                       宮 武 清 寛

         論語普及会  

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