364. 日本での儒教(9) 江戸時代と「論語」③林羅山(はやしらざん) | 論語ブログ

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日本での儒教(9)


江戸時代と「論語」③林羅山(はやしらざん)


 藤原惺窩は、自分が世話になり親交を結んでいた赤松広道が、西軍に加担したかどで家康から切腹させられていたこともあり、家康に仕えるのを拒み続けました。代わりに弟子の林羅山を推挙しました。自分は誰にも仕えない自由な立場で、加藤清正をはじめ、浅野幸長、細川忠利、直江兼継といった錚々たる大名たちに儒教系の古典を教えていました。

惺窩は、朱子学ばかりでなく、陽明学や古学(漢代ころの儒教研究)の中から、自由に良いものを取り入れて、その学問を築き上げています。

惺窩に推薦され、家康の側近となった林羅山は、若い頃、毎日数冊の漢籍を読むという驚異の勉強量で、圧倒的な知識を身につけていったようです。しかし、林羅山は、師の藤原惺窩に比べて学識では優りますが、人柄では大きく劣っていたと評されています。その典型が、権力へのおもねりだったようです。

惺窩によって儒者が注目を浴びたといっても、家康のブレーンは僧侶で占められていました。そのため、彼らに対抗する意味合いもあったのですが、おもねりは激しかったようです。例えば家康が、豊臣家からの政権簒奪を正当化する理論を欲しがって、中国の「易姓革命」に目をつけた事がありました。天命を失った王朝は、ひっくり返しても良いという理論です。この事を羅山に打診すると、羅山はお説ごもっともという返事をして家康に媚を売っています。

また有名な「鐘名(しょうめい)事件」でも羅山は暗躍していました。徳川家に兵を向ける口実が欲しかった徳川方が、豊臣家が再建した方広寺の「国家安康」という鐘名を、「家康」の名を引き裂くものだと因縁をつけた事件です。この時、それを学問的に正当化する文章を、他の僧侶たちよりさらに激烈な口調で書いたのが羅山です。

こんな出世のための嫌らしい手練手管を使って羅山は伸し上がり、浮き沈みはありつつも四代家綱まで仕え、儒教を幕府に定着させていったのです。

林羅山には、非常に狭量だというマイナス面もあったようです。彼は、惺窩と違ってひたすら朱子学だけを信奉していたため、他の仏教やキリスト教、陽明学などすべてを排斥した面がありました。羅山の死後も、幕府の官学ではこの傾向が定着してしまい、朱子学以外の学問、陽明学や、日本独自の儒学ともいえる山鹿素行、伊藤仁斎、荻生徂徠などの学問が勃興してくると、必ずといっていいほど幕府からの弾圧やそれに近い仕打ちが加えられていきました。


齊の景公、政を孔子に問う。

孔子對えて曰わく、父父たり、子子たり。

公曰わく、善いかな。信に如(も)し 君君たらず、臣臣たらず、父父たらず、子子たらずんば粟ありと雖も、吾得て諸を食わんや。

顔淵第十二  仮名論語1702行目です。

伊與田覺先生の解釈です。  

斉の景公が、政治の要道を尋ねられた。

先師が答えられた。「君は君らしく、臣は臣らしく、父は父らしく、子は子らしくするように教え導くことだと存じます」

景公が言われた。「善い言葉だ。まことにもし君が君らしくなく、臣が臣らしくなく、父が父らしくなく、子が子らしくなければ、米があったとしても、私は安んじて食べることができようか」


 「君は君たり、臣は臣たり、父は父たり、子は子たり」・・・君主は君主らしく、臣下は臣下らしく、父は父らしく、子は子らしく振舞うことが大切だ。

 朱子学の名分論にもとづくこの言葉は、約260年続いた江戸幕府の中心的論理といえます。

 しかし、日本ではのちに、「君、君たらずとも、臣は臣たり(君主が君主らしくなくても、臣下は臣下らしく従わねばならない)」というような、どうみても政権に都合がよすぎると思われる解釈も生むようになります。「論語」はのちにその封建性が批判されることもありますが、それは、このような孔子の教えを曲解したような解釈が存在する為かもしれません。


つづく

                       宮 武 清 寛






行ってきます。

孔徳成先生のお墓参りもしてきます。

私は台北で行われる釋奠に今年も参列します。

9月28日は孔子の誕生祭が各地で行われます。