107. 孔子の人物評(12) 宰 予 | 論語ブログ

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孔子の人物評(12



宰 予



宰予、晝(ひる)寝(い)ぬ。子曰わく、朽木(きゅうぼく)は彫るべからず、糞土(ふんど)の牆(しょう)は杇(ぬ)るべからず。予に於いてか何ぞ誅(せ)めん。

子曰わく、始め吾人に於けるや、其の言を聴きて其の行いを信ず。今吾人に於けるや、其の言を聴きて其の行いを観る。予に於いてか是を改む。

公冶長第五   仮名論語536行目です。

伊與田覺先生の解釈です。

宰予がだらしなく昼寝をしていた。先師が言われた。「腐った木には彫刻することはできない。ぼろ土の垣根には上塗りをしても駄目だ。そのようなお前をどうして責めようか。責めても仕方のないことだ」

先師は又言われた。「私は今までは、人の言葉を聞いてその人の行いを信じた。だが今は、その人の言葉を聞いても、その行いを見てから信じるようになった。お前によって人の見方を変えたからだよ」

 * 宰予、姓は宰、名は予、字は子我、弁舌の優れた人。



孔門の十哲の一人。姓は宰、名は予、字は子我。魯の人です。弁論に優れていた。一方、日中に昼寝をして、孔子を嘆かせる。後に斉の臨淄(りんし)の大夫となり、田常(陳成子)の乱に加わって、一族が皆殺しにされたということです。孔子はこの事を恥としたようです。

先ほど出てきた、冉有よりもまたさらに叱られているのが、この宰予です。



哀公、社を宰我に問う。宰我對えて曰わく、夏后氏は松を以ってし、殷人は柏を以ってし、周人は栗を以ってす。曰わく、民をして戦栗せしむるなり。

子之を聞きて曰わく、成事は説かず、遂事は諌めず、既往は咎めず。

八佾第三   仮名論語323行目です。

伊與田覺先生の解釈です。

哀公が宰我に土地の神を祭る社について尋ねられた。宰我が答えた。「夏の君は社に松を植え、殷の君は柏を植えたが、周の君は栗を植えました。そうしてここで罪人を殺しまして、その木の名の如く民をおののき恐れさせました」

先師がこれを聞かれて言われた。「すでに出来たことはとやかく言っても始まらない。やってしまったことは、徒に諌めても無駄というものだ。過ぎてしまったことは、とがめても仕方がない」



ここでは、土地神の社について哀公への答え方が悪いと非難されています。



宰我問う、三年の喪は期にして已(すで)に久し。君子三年禮を為さずんば、禮必ず壊(やぶ)れん。三年楽を為さずんば、楽必ず崩れん。舊穀(きゅうこく)既に没(つ)きて新穀(しんこく)既に升(のぼ)る、燧(すい)を鑽(き)りて火を改む。期にして已(や)むべし。

子曰わく、夫(か)の稲を食い、夫の錦(ひしき)を衣て、女(なんじ)に於いて安きか。曰わく、安し。女安くんば則ち之を為せ。夫(そ)れ君子の喪に居る、旨(うま)くを食らうも甘からず、楽を聞くも楽しからず、居處(きょしょ)安からず。故(ゆえ)に為さざるなり。今女安くんば則ち之を為せ。宰我出ず。

子曰わく、予の不仁なるや。子生まれて三年、然る後に父母の懐(ふところ)を免る。夫(そ)れ三年の藻は天下の通喪なり。予や、三年の愛其の父母に有るか。

陽貨第十七   仮名論語2737行目です。

伊與田覺先生の解釈です。

宰我が尋ねた。「父母のためにする三年の喪というのはその期間がすでに長すぎます。もし君子が自ら三年も礼を修めなかったなら、礼は必ずすたれましょう。三年も音楽を修めなかったなら、音楽は必ずくずれましょう。旧穀はすでになくなって新穀が出てまいりましょう。また火を取る木をすりもみして火を作りかえます。従って一年でやめるべきだと思います」

先師が「お前は三年もたたないのに、うまい飯をたべ、美しい着物を着ても心は安らかかね」と尋ねられた。宰我は「安らかであります」と答えた。

先師は「お前が安ければそうしなさい、一体君子は喪中にはご馳走を食べてもうまくなく、音楽を聞いても楽しくなく、家に在っても安らかでない。そこで政務をとらないのである。今お前の心が安ければ、そうするがよい」と言われた。宰我が出て行った。

先師が居合わせた門人達に「宰予はなんと不仁なことよ。子が生まれて三年、漸(ようや)く父母の懐をはなれるのである。一体三年の喪は、世の中の人が誰もやっている共通の喪である。宰予も三年の父母の保育の愛情を受けた筈(はず)なのに、忘れてしまったのであろうか」



ここでは、三年の喪がまが過ぎると言って不人情だと叱られています。

「宰予、晝(ひる)寝(い)ぬ」この章もまた宰予の昼寝として有名な章です。

「朽木は彫るべからず」腐った木には彫刻はできない。「糞土の牆(しょう)は杇(ぬ)るべからず」ごみ土を積み上げた垣根に上塗りはできない。というのは、木でも土でも質の良くない物に上飾りはできないということです。つまり、人間も素質の良くない者では教育のしがいがないことをたとえたのです。

「予に於いてか何ぞ誅(せ)めん」予に対して何を叱ろうぞ、叱るまでもない、叱ってもしかたがない、宰予はしようのない奴だ。

宰予が怠けて昼寝をしたことを強く責めたのです。

孔子はまた、こうも言っています。「始め吾人に於けるや、其の言を聴きて其の行いを信ず」前には人の言葉を聞いて立派であれば、それだけで立派だろうと信じていたのに、「今吾人に於けるや、其の言を聴きて其の行いを観る」今では言葉だけでは信用できないので、その行動まで観察するようになった。

「予に於いてか是を改む」宰予のような口先だけの男がいたから改めることにしたのだ、と。

この言葉は、ただ昼寝のことだけを踏まえたものではないでしょう。昼寝がそんなに悪いことなのかと不思議に感じます。そこで漢代のころから「昼(晝)寝」は「画(畫)寝」の字の誤りで、寝室に壁画を描かせる贅沢をしていたのだろうという説があります。我が荻生徂徠は昼間に寝室に居ることで、「蓋し言うべからざるもの有り」昼間から淫らなことをしていたのだろうと言っています。

しかし、とにもかくにも、救いようのない、下劣さをたとえた痛烈な言葉で、孔子が宰我(予)を非難したことを、この章では言っているのです。

この篇には、以上の人たちの他に、申棖・孔文子・子産・晏平仲・臧文仲・子張・子文(しぶん)・崔子(さいし)・季文子・寗武子(ねいぶし)・伯夷(はくい)・叔齊(しゅくせい)・微生高(びせいこう)・左丘明(さきゅうめい)と多くの人たちが出てきます。

次の機会に説明しましょう。



                        宮 武 清 寛