36. 論語を学ぶ旅〈大聖人孔子の故郷への旅〉(18)舞雩台 | 論語ブログ

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論語を学ぶ旅〈大聖人孔子の故郷への旅〉(18


舞雩台

 六芸城から弘道路を少し南に下がった所に舞雩台(ぶうだい)があります。舞雩台は「論語」先進篇に「沂(き)に浴し、舞雩に風して詠(えい)じて帰らん」と出てくる懐かしい場所ですが、曲阜の新市街が南の沂水のあたりまで広がってきているので、周囲を新造建築の取り囲む中、そこだけは叢林が残っています。孔子の住んでいた孔子廟あたりからピクニックに来るには、さして遠くも無く、程よい距離だと思いました。舞雩台を登っていくと、林の中に「舞雩壇」「聖賢楽趣」の二碑が立っています。

 川の流れは時代によって大きく変わる事があるので、孔子の頃とは位置関係が異なっているかもしれませんが、舞雩台の南には今も沂水が流れています。

 「雩」は、雨乞いを意味します。雨乞いの祭りには舞楽を伴いますので、「舞雩」と呼んだようです。孔子や門人たちが学問の合間に休息に出た場所とされています。

 ここでは、先進第十一、子路、曽皙、冉有、公西華、侍坐す。からの一章を素読しました。

 孔子と、子路、曽皙、冉有、公西華の四人の門人とが、くつろいでいました。孔子が、「もし君たちを認めてくれる人がいたら、何をしたいか。私に遠慮せずに言ってごらん」と話しかけました。皆それぞれ、自分の抱負を述べました。それが以下の章です。長いですが、伊與田先生の解釈の文だけでも読んでくださいね。


子路、曽皙、冉有、公西華、侍坐す。

子曰わく、吾一日爾(なんじ)とり長ぜるを以て、吾を以てすること無かれ。

   居れば則ち曰わく、吾を知らずと。如(も)し爾を知る或(あ)らば、則ち何を以てせんや。

子路率爾(そつじ)として對(こた)えて曰わく、千乘の國、大國の間に攝(はさ)まれて、之に加うるに、師旅を以てし、之に因るに飢饉を以てせんに、由や之を為(おさ)めて、三年に及ぶ比には、勇有りて且つ方(みち)を知らしむべきなり。夫子之を哂(わら)う。

求、爾は何如。對えて曰わく、方六七十、如(もし)くは五六十、求や之を為め、三年に及ぶ比には、民を足らしむべきなり。其の禮楽の如きは、以て君子を俟(ま)たん。

赤、爾は何如。對えて曰わく、之を能くすと曰(い)うには非らず。願わくば学ばん。宗廟の事、如くは會同に端章甫して願わくは、小相たらん。

點、爾は何如。瑟(しつ)を鼓(ひ)くこと希なり。鏗爾(こうじ)として瑟を舎(お)きて作(た)ち、對えて曰わく、三子者の撰に異なり。

子曰わく、何ぞ傷まんや、亦各々其の志を言うなり。曰わく、莫春(ぼしゅん)には春服を既に成り、冠者五六人、童子六七人、沂に浴し、舞雩に風じて、詠じて帰らん。

夫子喟然(きぜん)として歎じて曰わく、吾點に與(くみ)せん。三子者出ず。

   曽皙後れたり。曽皙曰わく、夫の三子者の言は何如。

子曰わく、亦各々其の志を言えるのみ。曰わく、夫子、何ぞ由を哂うや。

曰わく、國を為むるには禮を以てす。其の言譲らず。是の故に之を哂う。唯(こ)れ求は則ち邦に非ずや。安(いずく)んぞ方六七十如しくは五六十にして邦に非ざる者を見ん。唯れ赤は則ち邦に非ずや、宗廟會同は諸侯に非ずして何ぞや。赤や之が小相たらば敦(たれ)か能く大相たらん。

伊與田覺先生の解釈です。

子路、曽皙、冉有、公西華、が先師のお側でくつろいでいた。

先生が言われた。「私がお前たちより少し年上だからとて、遠慮はいらない。お前たちは、平生よく自分を知って挙げ用いてくれないと嘆いているが、若し知って用いてくれたら、どういうふうにするかね」

すると子路はいきなり答えて言った。「千乗の国が、大国の間に挟まれて、戦争をしかけられ、その上に飢饉が起こって困窮している時に私が治めたら、三年に及ぶころには、勇気があって更に人の道を知らせることができます」と、先師がにやっと笑われた。

次いで「求(冉有)お前はどうかね」と尋ねられた。求はこれに答えて言った。「六七十里、或は五六十里四方程度の国でしたら、私が治めて三年に及ぶころには、人民の生活を安定させることができます。礼楽というようなことになりますと高徳の人にまたなければなりません」

更に「赤(公西華)お前はどうかね」と先師が尋ねられた。赤は「私は充分できるというのではありませんが、礼楽を学んで宗廟の祭りや、諸侯の会合の時、礼服や礼冠をつけて補佐役くらいの役目につきたいと思います」と答えた。

最後に「點(曽皙)お前はどうかね」と尋ねられた。彼は大琴を時々思い出したようにひいていたが、かたっと大琴を床において立ち上がり「私は三人の意見とは違いますので」とためらって言った。

先師は「ただ皆がそれぞれの志を気楽に言ったまでだから何も気を遣うことはいらないよ」と言われた。そこで彼は、「晩春のよい季節に新しく仕立てた春服を着て、青年五六人少年六七人と沂の川のほとりでゆあみをして、舞雩台の涼しい風にあたり、詩を歌いながら帰りたいものだと思うくらいであります」と答えた。

先師はああと深いため息をつかれて言われた。「私は點の意見に賛同しよう」三人が出て行き、曽皙が後に残った。彼は先師に「あの三人の言ったことをどうお聞きになられましたか」と尋ねた。

先師は言われた。「ただそれぞれが自分の志を遠慮なく言ったまでのことだ」彼は「それではどうして由を笑われたのですか」と重ねて尋ねた。

先師が答えられた。「国を治める上に於いては礼が大切であるが、由の言葉には、へりくだりやゆずるところが感じられなかったので笑ったのだよ。求の場合も国を治めることを言ったのではないか。どうして方六七十里もしくは五六十里で国でないものがあろうか」「遠慮はしているがね。赤の場合も同じことではないか。宗廟や会同の儀式は国の大事な行事である。これもまた国の政治だよ。赤は大変謙遜して補佐役ぐらいのところを引き受けたいと言っていたが、彼が補佐役だったら、誰も彼の上に長官になれる者はないだろう」

 沂 魯の東側の川の名、ほとりに温泉があったという。

 舞雩 天を祀って雨乞いの祭りを行ったところ。樹木の茂る景色のよい台地。




つづく


                        宮 武 清 寛



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