広島原爆記念日 2009 | 安芸もみじ / Photos, Historys, Trains - Hiroshima JAPAN

広島原爆記念日 2009

安芸もみじな【宮島・西広島】-DVC00178.jpg

昨年の8月下旬、生ける災厄と呼ばれた父 武治が、その人生の終着を迎えました。

旅立ちを見送って初めての原爆記念日です。

父の名前が名簿に記帳され、慰霊碑に納められて初めての平和祈念式典ですから、今朝、仕事が終わってから、タクシーで平和公園へ向かいました。


平和大通は朝6時半から規制がかかっていて、中国新聞本社前までしか車で行けません。

で、そこから徒歩。

式典会場に着くと──遺族席も一杯で空席なし。


仕方ないので立ち席で参列です。

上の写真は、元安川から原爆ドームを炸裂地点に向けて撮りました。

1945(昭和20)年8月6日8時15分、島外科上空約600m地点にて、原爆は炸裂しました。


さて…式典ですが、8時から始まりました。


開式の挨拶と犠牲者への献水が最初にあり、続いて昨年7月から今年6月の間に亡くなられた原爆死没者の名簿が、慰霊碑へ納められましす。


この1年で亡くなられた方は、ぼくの父を含めて5635名で、これでこの慰霊碑に眠る犠牲者は26万3945柱となりました。


その後、広島市議会長の式辞があり、続いて秋葉広島市長・麻生内閣総理大臣・増添厚生労働大臣などの献花があり。

8時15分に1分間の黙祷。

そして秋葉市長による平和宣言があって、放鳩。

子供代表2名による平和への誓いの後、内閣総理大臣・広島県知事・国連総会議長・国連事務総長の挨拶。

最後に、ひろしま平和の歌の合唱が参列者全員で行われて、9時頃に閉会しました。

ぼくはその後、国立追悼記念館へ立ち寄り、死没者遺影登録申込書を貰い、平和公園管理事務所へ立ち寄って挨拶をして。

腹が減ったのでゲートインでモーニングを食べて。

帰宅途中で近所のファミマにてスーパードライ2本とポテトチップスを買って。

父の仏壇で乾杯しました。

とにかく夜勤明け…。

すぐに睡魔に襲われて(笑)

目が覚めたら19時半でした。

さてと。

そろそろ出勤せねばなりません。

今日は駆け足で、淡々と記した記事になってしまいました。






父から人間としての感性の一部を奪ったのは、7歳で体験した核攻撃だったのかも知れません。

生前の父を、私も父の妹弟たちも、そして親戚一堂も父をよく知る方々も、決して許すことは無く受け入れることも、未来永劫にありません。

しかしそれ故に、1つの歴史が終わったかのような開放感には満たされ、安堵の暮らしの訪れは約束されたのですから•••••••。

振り返った時に、1人の人間の死として見ることができるようになりました。

被爆者 父 武治の終焉は、日本史及び世界史に何の影響も与えませんが、ここに亡くなった時のアメブロに綴った日記を、転載してみたいと思います。

何せ父も被爆者なのですから、こうして記録を残すことによって、死後は少しでも人さまのお役に立って頂こうと考えます。



2008(平成20)年8月28日
◎ 0時過ぎ

DVC00053.jpg

これは病院のエレベーターを8階で降りる時に、ドアが開いた瞬間に見える景色です。
 
まだ父が入院したての頃、ドアが開くと父はこの正面に座っていました。
 
土曜日、ここで一緒に夕食を食べました。
 
 
奥のガラス側の席に陣取っていました。
 
だからエレベーターのドアが開くと、いつも目の前に。
 
でもここで食事をしたのは…3~4回だったかも知れません。
 
 
これは自販機です。
 
たまに買ってました…2つ。
 
何故、こんな平日の夜中の時間に病院へいるのかと言えば…!
 
父は現在、香水で身体を拭いてもらい、綿詰め作業が施されつつあります。
 
病室に入った時、まるで眠ってるだけみたいで、声をかけて身体を揺すったら、目を開きそうな…。
 
でもね、触ると冷たいんですよ。
 
もう動きませんし、しゃべらないんです。
 
不思議でしょ☆




2008(平成20)年8月28日

◎ 5時過ぎ


病院から電話がかかってきたのが22時56分。

そして今、朝を迎えつつあります。



通夜は西区観音の平安祭典にてです。

ツゲの間です☆



2008(平成20)年8月29日



この写真は以前紹介した、病室のボードに貼った内の1枚です。

柩の中に入れてあげました。

27日は、雨の中を電車で帰り、シャワーを浴びて、ビールを飲みながらスウィニートッドを見ていました。

でも途中から何か集中出来ず、見る気も失せて、DVDを止めてしまったのですが。

それから30分程度経った22時56分…ホスピスから電話がかかってきました。

着信名を見て、何故だかすごく冷静に事態を悟り、電話に出たら『お父さまの息がとまりました』と、告げられ。

延命処置は施さないコトにしていましたし、危篤から死亡まで5~10分だろうとも言われていましたし。

タクシーに乗って病院に着き、病室へ入ってみると、静かに眠っている父のいつもの姿がありました。

が、ただ1ついつもと違うのは、父は呼吸をしていませんでした☆



2008(平成20)年8月30日



非現実的な時間を過ごし、今、自宅のベッドにいると、長い夢でも見ていた感覚です。

元々、父はこの新居には住んでいないし、この4ケ月間はずっと入院していましたから。

父はもう病院にはいません。

頭では分かっているので、まだ父が生きているような感覚はありません。

が、こうしてベッドにいると、これまでの日常と何ら変わりなく。

妙に生々しい夢を見た朝…のような感覚です、今。

でもね、あるんですよ、家に…白い布に包まれた四角い箱が。

哀しみや落胆は、今のところありません。

ただ、その白い四角いものを見ていると『お父さん、やっと帰って来れたなぁ。よかった』と言う気持ちが一杯で…。

私メは感覚がズレてる?

おかしい??

でも、いいんです。

これが今の正直な気持ちなんです☆




通夜の時間、1人で過ごしていると別に哀しくも寂しくもないのに、涙がポロポロとこぼれてきました。

「あれ?オレ泣いてる。何で泣いてるんだ?」

あれは不思議な体験でしたが、親が亡くなるとは、こういうことなんだなぁと受け入れました。

その後、物足りなくなったり寂しくなったり•••••••と言ったことには陥らず、泣いたのもそれ1度きりで、どちらかと言えば開放感で満たされていました。

親1人子1人なので、いろいろ手続きも1人でこなさなくてはならないのと、生前にお世話になった方々へのご挨拶などなど。

多忙に過ごした1週間でしたが、人生の殆どは接客業で働いていたのですけど、この時は商工センターにあるマツダの下請け工場で勤務していました。

前述の通り親1人子1人なので、いろいろと時間が自由になる職種がいいとの思いから、転職していたのですけど。

時間が自由になると言っても、自由に休めると言う意味ではなく、休日がちゃんと決まっていて、連休もあって有給も使いやすい•••••••とのことからだった訳ですが。

父が亡くなり、1週間の慶弔休暇と有給休暇を取ったのですが、休み明けで普通ならお悔やみのことばとかもらえたりするじゃないですか。

上役に呼び出されて「とにかく謝れ」と、1週間休んだことに対して、謝罪を申し渡されました。

その時は、こっちも父が亡くなった慶びで何なく謝ったのですが、後から考えると「さすがマツダだ」と、しみじみと昔から言われるお家芸の非人道性を、奉った気分で笑いが止まりませんでした。

まぁうちの家は事情が特殊ではあるのですけど、一般的に考えてやっぱり親が亡くなって謝れって、凄い会社だなぁと感じます。

リーマンショックで契約社員や正社員を大量解雇したマツダグループでしたが、そりゃあんな無差別殺人事件も起こりますよね。

と言うことで最後は、思い出の零れ話と言うことで•••••••。

にほんブログ村 歴史ブログへ
広島ブログ
Please follow the blogxTranslated profile page