脱獄した男が捕まり独房へ入れられる。

 

刑期は2年間、一日一食(スープのような)、部屋は四畳半ほどのスペース。

 

しばらくじっと座っていた男は立ち上がり、壁から壁へ数歩歩き、向きを変えて歩くを繰り返す。

 

さらに腕立て伏せを何回も行う。

 

体力、筋力を落とさぬため、2年後に脱獄に再び挑むためである。

 

無実の罪を訴える男、パピヨンが後に自由の身となり、自叙伝を出し、映画になった。

 

そのワンシーンである。

 

近年リメイクされたが、私は旧作S・マックイーンとD・ホフマン出演作のほうがいい。

 

政府からの緊急事態宣言が出され、日々家で過ごすようになった。

 

人との面会を避け、雑用をこなすが基本は無職であり、油断すると稽古も遠ざかる。

 

道場生はどうしているだろうか。

 

私のひとり稽古をここに記す。

 

基本稽古、正拳中断突きから廻し蹴りまでを各20本間隔なし連続で行う。

 

15分間で終わる。

 

次に受け→突き→蹴りと蹴り→突き→受けのコンビネーションを20回ずつ。

 

最後は腕立て→スクワット→腹筋各10回を3R繰り返す。

 

畳一畳、時間は30分もあれば大汗をかく稽古ができます。

 

雌伏という言葉がある。

 

将来の活躍を期して、実力を養い、待つということだ。

 

大山倍達総裁が好きだった臥竜という型。

 

その理由が竜は長い間、湖底に身を伏せ待っている、空に雲が現れるのを、である。

 

そして雲が現れるや否や竜は天に昇るというお話。

 

それによく似た言葉ととらえている。

 

向こう半年、あるいは一年であろうか。

 

今は各々じっと耐えて自力をつける時期だ。

 

やがて光が見えた時、雄飛となる。

 

 

 

※このブログでは雌伏を差別の意味で用いておりません。また人に服従すること、という意味にも用いておりません。

※自宅で稽古をする時には人や家具と間隔を十分に取り、あらゆるものに気を配ってください。

 

 

ふたつのことを考えている。

 

ひとつは現在の日本の議会制民主主義(国会)の在り方の変更。

 

もうひとつが教育制度の改革だ。

 

ぼう大な労力、時間、金をかけて選ばれた737名の各地の代表(衆参両議員)がこれまた多額な維持費を伴う国会議事堂に集い、多数決で国政(政策)を決定してゆく。

 

決めてゆくのだが、決定事項もその過程もあまりに一部の人間の恣意によるものが多く、野党による疑問や質問に対する与党の答えは誠実な答弁があまりない。

 

国会でのやり取りはすべて事前に作られた台本。

 

ドラマや演劇での稽古にあたる役者同志のシナリオ読み合わせのほうがもともな受け応えがあるはず。

 

質問をはぐらかしたり、関係のない答えが多い。

 

また決してこの通りです、すみません、の一言を言わない。

 

だから見ている側をいらだたせる。

 

相手の意見を認めず、互いに言いたいことを言い合うので、結局何が決まったのかわからないのだ。

 

台本を読まない時のやり取りはさらに稚拙で下品な言葉の応酬となり、見ていられない。

何故ここまで劣化したか?

 

人物がいないのだ。

 

昔だっていたかどうかは疑問だ。

 

歴史を振り返れば何度も戦争を繰り返している、過ちだらけだ。

 

人が成長することなく、140年も前に海外より輸入した議会制民主主義というシステムも機能していない。

 

全て止めるべきだ。

 

これからは人より優れたAI(人工知能)に国としての政策を委ねる。

 

AIが考えたいくつかの答えに対し、国民が手元にある端末で選択するのだ。

 

選ばれた政策は実行集団(今の省庁を改革したワーキンググループ)に送られ、実践される。

 

時に機械だって間違えるだろうが、今のような当たり前になった不正は限りなくなくなっていく。

 

税金無駄使いも減るだろう。

 

政治学は学問として存続するが、政治家という職種は消えてなくなる。

 

教育制度の改革。

 

これは全国の市町村に一任する。

 

各地の気候風土や文化に基づいた教育制度がよい。

 

個性的な人物を育てるのだ。

 

私の個人的な思いは四書五経を軸にした忠孝仁愛教化の道を説く教育がよいと考える。

 

アナクロニズムだと言われそうだが、そんなことはない。

 

皆、手元に一台、グローバリズムを持っているではないか。

 

バランスの取れた人物が育つと思う。

 

だがその人物が政治家になろうなどとは考えない。

 

そんなことは無理なのだ。

 

AIに人間性、精神性、抒情性を組み込むエンジニアという職業になるはずである。

 

 

なんとも言えない脱力感に襲われている。

 

この日のために三か月以上稽古をつけて型の試合と演武会に向けて集中してきた。

 

特にここ二週間はスタッフ、審判の要請と演武会資材などの調達、搬入・搬出の段取りを詰めていた。

 

だが四日前に中止の決定をした。

 

新型コロナウイルス感染予防のためである。

 

緊張の糸が緩む。

 

達成感を伴わないのでやるせなさが我が身をおおう。

 

昔、モスクワ五輪を日本政府が不参加決定をした。

 

米国の西側諸国への要請を受けたのである。

 

なんとも情けないことであったが、かわいそうなのは命がけでオリンピックのメダルを目指していた選手たちであった。

 

涙ながらに参加をJOC会長に訴えていた選手の顔をよく覚えている。

 

大国の他国への侵攻。

 

あからさまに反発する強国のエゴイズム。

 

全ては人間の欲望と悪意が招いた出来事だった。

 

世界大会を直前に控えた二十五年前の極真会館分裂も選手たちには気の毒なことをした。

 

感情の行き違いが世界の極真を分断した。

 

当時の関係者はあれ以降、空手道人生に半分影を感じているはずだ。

 

この度のウイルス感染拡大も一言で自然災害では片づけられない人為的な失態を感じる。

 

政府、関係省庁の初動ミスが招いた半分は人災であろう。

 

トップは責任を問われるべきである。

 

思い切り空手の大会をしたいものだ。

 

春はそこまで来ている。

 

 

 

 

世の中の指導者(経営者、起業家も)と呼ばれる人達が何か事を起こす時、また指導する途中で迷った時、藁をもすがる気持ちで求めるものがある。

 

それは先人が遺した言葉である。

 

はじめに言葉があった、で始まる聖書に代表されるように宗教家、為政者の叡智は言葉という宝石となり、書物にちりばめられている。

 

生涯一書生は禅の言葉らしいが、これを生涯一捕手にかえて座右の名にした元プロ野球監督の訃報が伝えられた。

 

1990年代初頭、弱小であった在京プロ野球チームを三度日本一に導いた。

 

名将は現役時代も三冠王を獲得するなど活躍したが、人気の薄いパリーグでの自分を月見草と表現した。

 

やはり若き頃より言葉を探していたようだ

 

監督となってからの采配はデータ重視のID野球。

 

勝負を決する局面で過去のデータをもとに相手投手の次の配球を予測した。

 

理に適った戦術を言葉で選手たちに理解させた。

 

とかく、生まれついての天才達の感覚や実体験が優遇されてきたプロ野球界にID野球は新風を送り込んだ。

 

90年は私が極真の世界チャンピオンを育てると天に誓った年である。

 

弱小チームが日本一に輝く姿を目の当たりにして私も名監督の一言一言に耳を傾けた記憶がある。

 

言葉を大切にし、数々の名選手を育てた知将は84歳で旅立ったが、私にはうらやましい人生である。

 

自分が愛した野球で大勢の人に出会い、大勢の弟子に愛されたであろうからである。

 

「野球は心なんだよ」

 

息子に残した言葉だという。

 

監督名人の域にいたに違いない。

 

 

 

 

年が明けた、2020年である。

 

今年は東京オリンピック、パラリンピックの開催年でもある。

 

商業化されてしまったオリンピックは56年前の東京五輪とずい分、質も規模も変わってしまうのだろう。

 

だが、昨今のラグビーW杯での日本選手の活躍が私たちの心を揺り動かしたように、アスリート達の能力と情熱、そして五輪の精神である相手へのリスペクトは観衆の魂に響くに違いない。

 

日本国中、いや世界の人々の精神を浄化してくれることであろう。

 

感動の嵐が願わくば、日本の政治にも浄化作用を及ぼしてほしいと切に望む。

 

国有地売却疑惑に始まり、公文書の改ざん、桜を見る会の有権者買収疑惑、IR誘致での収賄による議員の逮捕、パソコンアップデータは公文書ではないという官房長官の発言など、何かが壊れてしまったと思うしかない現政権の腐敗ぶりである。

 

どの不祥事を取り上げても私達が看過できないはずの事象であるにも関わらず、変革の一票を投じられないのは自分にとっての損得勘定が働くからである。

 

人が世の中を生きてゆくとき、勝ち負けや損得はつきものだが、それ以前に大切なことがあることをたかがスポーツの競技といえど、教えてくれる。

 

過日のラクビーであれば勇気、献身、誇りである。

 

7月には世界中から己の弱さと向き合い、克己してきた若者が東京に集結する。

 

誠という名のウェーブが東京から世界に届くはずだ。

 

元旦の今日、道場で若い選手達と稽古した。

 

20年以上を振り返っても1日からの稽古はなかった。

 

今年も自分自身の稽古をしっかりしよう。

 

目を曇らせぬため、道を踏み外さぬためである。

 

 

ラグビー選手が話していた-最近コンビニや居酒屋へ行くとありがとう、と人から声をかけられる-と。

 

ベスト8入賞おめでとう、ではなくありがとうとは面白い。

 

私も昔、生徒が出場した全日本や世界大会に招いた知人から、いいものを見せてもらった、ありがとうと礼を言われたことがある。

 

これは観ていた人が、選手達が闘う姿を通して何かを思い出させてもらったからに違いない。

 

潰されても立ち上がり、懸命に肉弾戦を繰り返す戦士の姿から勇気、チームのために捨て身で突っ込む献身などの誠を感じたのだろう。

 

社会人として寄らば大樹的な思考や妥協、打算が当たり前となり、人として忘れてしまった大切な心を垣間見させてもらったことに対する礼の言葉がありがとう、なのだ。

 

思えば、試合後のラガーマン達からは青臭いとも言える言葉が多かった。

 

曰く-たくさんのいいメモリーとたくさんの仲間を得ることができた、めちゃ楽しかった、負けたくやしさより仲間とラグビーができなくなることのほうが悲しい、チームが大好きです-

屈強な男たちが涙ながらに語った言葉だ。

 

もし彼らが年間何億円等々も稼ぐ者であったら、ここまでドラマに出てくるようなセリフが口をついて出たであろうか。

 

プロ同士の闘いは凄味があり、ふてぶてしさを感じるが、初々しさや清々しさは感じられない。

 

闘う動機の全てが年俸や賞金ではないだろうが、自分を商品として考える彼らは残りのシーズンや来シーズンの活躍を常に頭のどこかで計算しているはずだ。

 

このたびのラグビーW杯での日本チームの活躍が日本中を席巻したのは彼らがアマチュアチームだったからである。

 

彼らが定めたベスト8入賞という壁を突破することができたのは、たゆまぬ基本(トレーニング、戦術)の繰り返しと変化、工夫そして気迫があったからだと思う。

 

今こそラグビー競技のプロリーグ化をという動きがあるようだが、私としてはアマチュアのままでいてほしい。

 

彼らのような人達が社会人としていてくれることの方が世の中に善い影響を与えてくれると考えるからだ。

 

 

 

追記

現在、ラグビー選手はプロ契約をしている人とそうではない人がいるとこれを書いたあとから知った。

しかしながら観ていて清々しかったのは確かだ。

次の壁へのチャレンジをしてほしい。

 

 

 

「ごすっ」

 

生木同士がぶつかったような音がして脚を蹴られた方が壁際へ退く。

 

あぁ、この肉と肉、骨と骨がぶつかりあう独特の音、久しぶりに聞いた。

 

黒帯を目指す道場生たちが生身で組手をする、年に一度の昇段審査会での場面だ。

 

ある女子に目がいった。

 

組手開始早々、緊張と肉体への衝撃から表情がこわばり、泣き出しそうになった。

 

思い描いていたのと、素手素足で思い切り打ち合い、蹴り合う現実のギャップからだと思う。

 

だが二人目の組手の半ばあたりから目が据わってくる。

 

状況に身体が慣れてきて練習した動きが出始めたのだろう。

 

冷静さを取り戻した目に強い意志が宿り、がぜん動きがよくなった。

 

最後の一人も攻め込まれるシーンがあったが、盛り返して無事に闘いきった。

 

極限状態で出せた技、受けた力、動いた心。

 

あの世界を経験した者の表情は引き締まり、目が輝く。

 

それを目撃した人間は心を打たれ、魂を揺さぶられ、明日からの生きる力をもらうのだ。

 

身に寸鉄も帯びない人の肉体と肉体がぶつかり合うスポーツに人は感動する。

 

四十日間にわたり日本を感動の嵐に巻き込んだラグビーW杯での選手たちの闘いもまさにそれであった。

 

人と人の闘いに遺恨はつきものだが、空手道における礼、スポーツにおけるリスペクトはそんなものを霧散させ、友愛、信頼、人の和という宝物を戦闘後に与えてくれる。

 

極真空手とラクビーは似ている。

 

肉体の鍛え方も求める精神も。

 

 

 

 

 

 

 

スウェーデン合宿から戻って一か月半。

 

今、スウェーデンという国に対して抱く想いは家族である。

 

我々を招聘して下さったヨハン先生も話していた、-この合宿はファミリーキャンプです-と。

 

確かに選手志向、腕自慢タイプの道場生は数える程で、女性、少年が四分の一はいたと思う。

 

ヨハン先生の道場は少年が三百名近くを占めるというのもうなずける。

 

スウェーデンにおける家族という単位とその絆を強くしている要因に寒さがあるだろう。

 

私が夜中、寒さで目が覚め、眠れないという経験は冬のロシアでもなかった。

 

一年のうち、半年間は雪と氷に閉ざされる。

 

その陰鬱であろう景観は、九月だというのにホテルの窓から見える冷たい雨の街を肩をすぼめて歩く外套姿の人たちから容易に想像できた。

 

外が凍える寒さ故、家の中で過ごす時間が長くなる。

 

当然、意識は家具や調理器具にゆき、快適さや楽しみを求めるようになる。

 

また、机に向かい、沈思黙考する学問はもちろん、芸術、音楽、スポーツ(室内外競技全般)にエネルギーは注がれる。

 

その結果、家族を守る頑丈で有名な名車を産んだ車産業は栄え、世界の産業や平和事業に貢献した各界の人物に贈られるノーベル賞なるものまでうまれた。

 

スウェーデンは一人の人間の主義主張や自由が尊重される個人主義が究極まで発達した国でもあると思う。

 

先月の国連会議の席上、かの国の女子高生が地球温暖化を省みない先進国のトップたちに憎しみの発言をしていたことからもそのことはうかがえる。

 

経済的、精神的に成長した国の人たちが参加した空手のサマーキャンプ。

 

きっと様々な動機からであっただろう。

 

私が伝えたかったのは、空手道の稽古で自分に厳しく向き合い、人に優しくできる極真精神だ。

 

懸命に稽古して何分の一かは伝わったであろうが、今回ほど言葉の重要性を知らされた合宿はなかった。

 

自分の体力が衰えた分、言葉で補おうとしたためである。

 

もう一度英会話を勉強しようと心に決めた。

 

 

 

-追記-

帰国後、映画を観た。

スウェーデンを舞台にした「ドラゴン・タトゥーの女」「蜘蛛の巣を払う女」。

いずれも家族・親族の情念、愛欲が交錯するサスペンス映画だった。

 

大会が終わって今日で四日。

 

昨日あたりから背中、太ももから両膝にかけて鉛のような疲れが流れ落ちてくる。

 

直後は興奮して目は冴え、身体が動くものだからトレーニング等していた。

 

その筋肉疲労もあるのかな。

 

そういえば、少年、一般とも稽古生は少ない。

 

殆どが選手、スタッフで大会に関わったからぐったりだよな、きっと。

 

でも稽古に出てくる生徒の目は輝いている。

 

勝っても負けても疲れてもだ。

 

きっと何かを感じたのだろう。

 

逃げ出そうとする自分に負けないこと、相手に向かってゆくこと、自分に必要な何か、技、力、精神…すぐに得られるかどうかは別として、彼らはとにかく道場に来る。

 

願わくば、素直な心で私が言うことを受け止めて一所懸命、練習してほしい。

 

今の世の中、他人を指さしてお前が悪い!という人間ばかり。

 

国家としてもお前の国が悪い!という大国、強国ばかりが目につく。

 

他人と比較して強いとか弱いとかではない。

 

自分の内面を見つめて足りないものを探し、強さを磨いてゆく。

 

こんな人物と呼べる人が増えていけば大山総裁が夢見た世界平和にも近づけるだろう。

 

空手の大会が増え続ける昨今、空手道を競技としてとらえる人も多いはずだ。

 

選手が人物になれるかどうかは只ひとつ。

 

指導者と呼ばれる人たちが真剣に試合を人間形成に役立つ道具ととらえているかにかかっている。

 

 

 

 

 

 

グーグルで検索したわけではない。

 

その他の資料を調べたわけでもない。

 

想像でものをいうので間違っていても謝らないからね。

 

きっと性格が少しひねくれた英国人が考えた球技だと思うのだ。

 

どこへ行くのかわからない楕円形のボール。

 

前に投げると反則、パスは後方のみ。

 

レスリング並みに倒しあうのに、関節を決めることもない。

 

また執念を燃やしてドロドロになるまで闘うのに、ドローの場合は延長なし、くじで勝敗を決める。

 

だったら最初からあみだで決着つけろよ、と言いたくなる。

 

パンツ引っ張り合い(したいしたくないに関わらず)、泥んこになるくせに、試合終了後はブレザーにトレンチコートを身にまとい、紳士気取りにバリっと決める。

 

いかにも英国が世界を植民地にしたころの貴族が自国の誇りと気質をラグビーという球技に込めた気がしてならないのだ。

 

そんな英国人の英国人による英国人のためのラグビー競技で日本がアイルランドから大金星を挙げた。

 

金星というからには前頭の力士が横綱に土をつけたぐらいかとも思うけど、最近の横綱はよく負けるからこの形容は当たっているとは言えない。

 

もっと強く歴史に残る勝利であった。

 

この一戦のために三年前に就任したコーチは選手の身体作り、そして綿密な戦術を教え込んだという。

 

全てを犠牲にした結果、勝ててよかった。

 

勝利者インタビューで選手の口をついて出た犠牲とは、家族や職場の人間関係、時間の共有のことを述べていたと思うのだが、これは彼らがアマチュア選手だからであろう。

 

聞くと驚くような高年俸が当然の別のプロ競技の選手は、金で全ての隙間を埋める。

 

社会と隔絶された特殊な世界で修行僧のように競技に没頭することもうらやましい人生と言えるが、会社人として競技生活で自分を磨く生き方はすばらしいことだ。

 

スクラムを組む選手の究極まで鍛え上げられた身体。

 

その首やヒザに大きなテーピングを見る時、体を張って生きる彼らの人生がそこにある。

 

ラグビーW杯日本チームの桜戦士に刮目したい。