ケニアの環境運動家のワンガリ・マータイ博士が、
自伝の中で紹介していた話があります
───博士が生まれたケニアの村では、
皆が「畏敬の念」をもって大切にしていた
イチジクの木を中心に、自然が守られていました
しかし、アメリカへの留学を終えた博士が、
ある時、故郷に立ち寄ると、信じられない光景が
広がっていたのです
イチジクの木が立っていた土地を新たに手に入れた人が、
「場所を取りすぎて邪魔だ」と考え、
イチジクの木を切り倒し、茶畑にするための
スペースがつくられていたのです
その結果、風景が一変しただけでなく、
「地滑りが頻繁に起こるようになり、
きれいな飲み水の水源も乏しくなっていた」と
自分が限りなく大切にしてきたものが、
他の人には邪魔としか映らない───
こうした認識の違いが引き起こす問題は、
人間と人間、ひいては文化的背景や
民族的背景が異なる集団同士の関係にも
当て嵌まるのではないでしょうか
つまり、自分の意識にないことは、
「自分の世界」から欠落してしまうという問題です
私は、こうした状況を打開する道は、
迂遠のようでも、一対一の対話を通し、
互いの人生の物語に耳を傾け合うことから
始まるのではないかと訴えたいです