「神の手」、読了いたしました。
(一部ネタバレを含みますので、もしこれから読もうと想っている方は読了後に御高覧下さい。)
今回のテーマは、久坂部先生
が以前から随所でその是非を論じてきた、「安楽死」でした。
安楽死の合法化には、様々な見地からの極めて慎重な審議が必要だという視点に添って、物語は展開していきます。
そもそもボクは、安楽死は合法化すべき、と常々思っていました。
医療者の端くれとして、その必要性を感じさせられるケースに幾度か遭遇してきたからです。
しかし「神の手
」を読んで、その考えの浅さを思い知りました。
「苦痛に耐えかね、死を求める患者は確かにいる」、一方で安楽死は、「患者への無言の圧力になる」。
確かに、と思いました。
もしボクが回復しがたい病 に侵され、経済的にも精神的にも肉体的にも家族の負担になっていると感じたら、仮に「まだ生きたい!」という本音があったとしても、それを抑えて安楽死を選ぶかもません。
どんなに家族を信頼していても、「もしかしたら腹の底ではそれを望んでいるんじゃないだろうか・・・?」という疑心暗鬼がうまれる可能性があります。それは無言のプレッシャーとなり、選択肢のひとつである安楽死を強く意識しながらの療養生活になるはずです。合法化され一般化すれば、似た感情を持つ患者は少なくないでしょう。よしんば安楽死を選ばなかったとしても、介護者 と被介護者の関係性には、今とは異なる心理的な隔たりが生じると予想されます。
また、「安楽死は年齢の若い患者にこそ必要だ」という視点にもハッとさせられました。(理由は本書を読めば明瞭です。)
このように、ちょっと考えればわかることなのに、考慮の及んでいない盲点
が他にも多々ありました。
あらためて安楽死是非議論の難しさを知り、自分の思考の浅はかさを痛感した次第です。
今回は「ケルビム」という安楽死の薬の開発が物語の軸になります。
著書「破裂」では、心不全の治療薬が劇的な回復効果をもたらし、身体に若さを取り戻させた後、心筋梗塞を惹起してポックリ死ねる、という薬がストーリーを引っ張りました。
安楽死しかりPPKしかり、久坂部先生は、「死」は恐くて怖ろしくて絶対に遠ざけるべきもの
、という固定概念を根本から崩そうとしているようにも思えます。
事実、著書「日本人の死に時」では「ガンの末期になったらモルヒネの毛布にくるまって眠りたい」と述べています。
基本的に、「死は自然な形で受け入れるべきもの」という意見をお持ちと察せられます。
しかし同時に、「生」にしがみつく患者や家族の想いも無視できない、そんな狭間で久坂部先生はいつも頭を悩ませているのでしょう。出口のない迷路での右往左往を、小説という形で発表しているのでしょうか。
ただ今回の「神の手」を小説として読んだ場合には、いくつかの荒さが見受けられました。
●政治がらみの話がまどろっこしい。
●阻止連は感情論に傾きすぎ。古林康代は結局何が目的なのかだんだんわからなくなってしまった。推進派と阻止連、もっと論理的な双方の抗戦をシンプルに描けば、上巻のみの分量で完結できたか。
●人が殺されすぎ。
●新見がネオナチだったという根拠があまりに唐突。
●JAMAと雪恵のつながりがいまいち説明不足。
―とは言え、ボクは久坂部先生の新刊が読めるだけで幸せなので、嬉々としてページをめくりましたが。
前半は白川の煮え切らない弱腰な態度が気になりました。
右にゆれ左にゆれ、「どないやねん!?」と突っ込まずにはおれませんでしたが、これこそまさに、久坂部先生の考えそのものであるようにも思えます。
現実にもいつか、合法化への論議が日本でもなされる日が来るのでしょうか?
JAMAや佐渡原のような「力」ではなく、メディアに煽られた国民側から内圧が高まるようにして、議論が持たれるようになるのかもしれません。
そんなときケルビムの存在があれば、ボクは合法化に賛成です。
先述した点などの他に、悪用の恐れや医療進歩の足かせになるなど、様々な意見が飛び交うでしょう。
が、それでもやはりボクは賛成すると思うのです。
「センセイ」の最後のセリフは、そう思わせるのに十分すぎる、強烈な説得力を持っていました。