ちっぽけな話のはじまり、はじまり。
七夕はロマンチックであり、夢がある日かもしれない。
オリヒメとヒコボシの伝説はラブストーリーであり、短冊に願い事を書く風習もある。人は大人になるにつれて、どちらもあり得ないことだとわかってくる。バカバカしいと思う人も多いに違いない。話を信じているのは幼い子供らだけかもしれない。それでも今の子供らは大人びているから、ばっかじゃない?そんなのウソに決まっている、と言い出しそうだ。子供にウソをつくことはいけないことだし、間違ったことを教えることもいけない。でも、子供のときぐらいは夢みたいな話を聞かされて、ワクワクしていてもいいじゃないかと思う。大人になるにつれてワクワクすることがだんだん少なくなって来るんだから。
森山友子は深々と座っていたソファからゆっくりと立ち上がった。徐々にひざを伸ばして、一瞬顔をゆがめ、また徐々にひざを伸ばしていく。もうすぐ70歳に手が届こうとする歳だから、体のいたるところにガタがきてもおかしくはない。目も耳も少し衰えてきたが生活するには支障がない。右ひざの関節が時折痛むぐらいだ。一歩一歩ゆっくりだが確かな足取りで庭に面したガラス窓に近づいていった。長い間、冷房の効いた部屋にいるとひざが痛み出す。窓を開けると、もわっとした空気に包まれたが、やはり外のほうがいい。縁側に腰掛けて庭を見渡すと、大きな笹が隅っこに置かれていた。うつろな目で笹を眺め、思いを馳せると涙がじんわりと沸いてくる。ふんわりした風が吹いてきて、目の辺りがひんやりとしてくる。目を閉じると、風が優しく全身を包むように抜けていく。
七月に入ったある日、友子は孫のエリカに織姫と彦星の話を聞かせていた。幼いエリカは大きく目を見開いて、じっと聞き入っている。話し終えると
「晴れると、いいね」
大きな声でひとこと言ってエリカはリビングから駆けるように出て行った。
「義母さん、あまりエリカに作り話を聞かせないようにしてくださいよ。最近の子供たちはちょっとしたことでも嘘つき呼ばわりして、いじめようとするのよ。もし、エリカが本当に信じて友達にいいふらしたら困るわ」
冷たい麦茶をお盆に乗せて嫁の久美子がリビングに入ってきた。
「いいじゃないか。どうせ大きくなったらいくら夢がある話しをしても聞いてくれなくなるよ。エリカには夢を持ちながら大きくなって欲しいじゃないか」
新聞を広げながら息子の浩二が言った。
「でも、自分の娘がいじめられるのって嫌じゃない」
「ごめんなさいね。久美子さん」
友子は息子夫婦と同居をするにあたって、二人に対して意見をしないと決めていた。夫婦喧嘩になっても、どちらが悪いともどちらがいいとも言わない。どちらかに加勢すれば二対一の喧嘩になる。言われたことに対して反論もしない。もし、どちらかに加勢がつけば、やはり二対一の喧嘩になってしまう。狭い部屋の中でいがみ合うよりも余生はゆっくり穏やかに過ごしたい。
このときも息子の加勢は嬉しかったが、友子ほうが折れて頭を下げた。孫がいじめらられることは嫌だが、なんとも味気ない世の中になったのだ。親から織姫と彦星の話を聞いて、毎年、七夕が来るたびに夜空を眺めたものだが・・・。
「ねぇ。浩二、笹の葉を用意できないかしら?」
「笹の葉?母さん、なんだい急に・・・」
「オマエ、覚えているかい?エリカちゃんぐらいのときに庭に笹の葉を立てて、短冊に願い事を書いたでしょ。エリカちゃんを見ていたら、またあの頃のように家族で七夕を迎えたいなって思ったのよ」
「へー、そんなことしてたんだ」と、久美子が口をはさんできた。
「まぁな。でも、今頃、笹なんて手に入るかなぁ」
「義母さん、浩二さんは仕事が大変で疲れているのよ。わがまま言わないで、休みの日ぐらいゆっくりさせてあげてくださいね」
「久美子、ありがとうな。でも、気晴らしにちょっと探してくるよ」
「ごめんなさいね、久美子さん。浩二も、ゆっくりしていて」
浩二は新聞を畳むと立ち上がって、車のキーをポケットに押し込み
「じゃあ、ちょっと行ってくる」
と、言った。
「あなた、無理しなくても・・・」
「なんならオマエも一緒に行くか?」
「わたしは夕食の準備があるから遠慮しておくわ」
浩二が部屋を出た後に久美子もそそくさと買い物に行って来ると出かけてしまった。部屋に残された友子に静かにゆっくりした時間が流れていく。寂しさは感じない。なにしろ七夕の日の楽しさを思い浮かべるだけでも嬉しくなってくる。年老いた者は想像するだけでも十分に時間を過ごせる。そうしなければ有り余る時間を使いきれない。
事件は夕方に起こった。エリカが泣きながら帰ってきたのだ。泣きじゃくるエリカを久美子が両手で包み込み、優しく尋ねた。
「どうしたの?泣いているだけじゃ、わからないわよ」
「織姫なんていないって・・・。彦星もいないって・・・。エリカ、嘘つきじゃないよね」
エリカの頭を撫ぜながら久美子が顔を上げて友子の方を向いた。やっぱりという表情に少し怒りが込められているようで、友子はすまなそうに困った顔をするしかない。そこへ、笹を携えて浩二が帰ってきた。
「いやー、なかなかみつからなくって・・・。どうしたんだ?エリカ?」
「どうしたもこうしたもないわよ。おばあちゃんのお陰でエリカがいじめられたのよ」
久美子が浩二から笹を奪い取るように掴むと、窓を開けて庭に出てしまった。ドサッと大きな音がして、久美子が庭から戻ってきた。
恐い顔をして久美子が友子に何か言おうとした矢先に
「エリカちゃん、ごめんね」
と友子がエリカに話しかけた。
「うんうん、おばあちゃんは悪くないもん。織姫も彦星もいるよね」
涙と鼻水を垂らしながらエリカが声を詰まらせながら下を向いて言った。
「ごめんね、ごめんね、ごめんね・・・」
遠くどこかで笑い声が聞こえてくる。幼い頃の自分の笑い声のようでもあるけれど、違う気がする。ゆっくりゆっくり霧が晴れてくるように頭がすっきりしてくる。どうやら友子は縁側に座って居眠りをしまったようだ。ゆっくり目を開けるとカサカサと小さな音がする。壁にそった雨どいに笹が縛り付けられて、風に揺れて葉を揺らしている。笹の葉には赤や黄色の短冊がくくりつけられて風になびいていた。
「おばあちゃん、起きた?」
きゃっきゃと笑いながらエリカが友子の背中にしがみついてきた。笑い声は孫のエリカだったのだ。
「パパとママで願い事を書いて、笹につけたよ。おばあちゃんも一緒って、パパに言ったんだけど、ママが起こしちゃいけないって。楽しかったよ」
きゃっきゃと笑いながらエリカが離れていった。
友子は庭に出て、笹の葉につるされた短冊を1つ手にとって眺めた。
「おばあちゃんの いたいひざが なおりますように エリカ」
胸が締め付けられる想いがこみ上げてくる。友子は部屋に戻り、テーブルに広げられた短冊とペンを取り、なにやら書きはじめた。すっきりした細い線ではあるが、力強い書体で丁寧に書いた。そして、庭の笹に短冊をくくりつけた。
「いつまでも エリカちゃんが やさしい子でいますように おばあちゃん」
今宵は友子の心の中のように澄み切った星空が広がるだろう。
ちっぽけな話のおわり、おわり