海老蔵事件に見る卑怯さ | 中国に侵略されている日本を護り抜け

中国に侵略されている日本を護り抜け

~この日本には、もう国を護とうろする男はいないのだろうか。武力衝突だけが戦争ではない。すでに中国共産党による情報の戦争、そして侵略は始まっている。眠っている男たちよ目を覚ませ。大和魂よ、蘇れ!そしてこの美し国を護り抜け!~

実はブログのメッセージを通して、

某テレビ局から、

「海老蔵事件について取材させて欲しい」

と、数日前に言われた。

というよりも、

相手側(テレビ局)も

私が断ることを読んでいたらしく、

「海老蔵事件ではなく、
 東京の若者について語って頂きたい」

などとというのだ。

しかし私は、

「いや、あの事件が騒がれている時だから、
 絶対に本心は海老蔵事件について、
 私から何か話を聞きだしたいのだ」

と裏を読み、

テレビ局側に話を引っ張られないように、

注意すると共に、

「難しいけれども、
 若者たちが暴走族やギャングになるのは、
 男子としての生き方を教えない教育、
 日教組に問題がある」

と、

出来ることなら、

こちら側も問題を

すり替えてしまおうと企んだ。


しかし無名な私の話など聞く余地もなく、

私自身も、もちろん、

海老蔵事件のような、

そんな瑣末なことは語りたくないので、

結局、丁重にお断りした。



しかしこの事件、

いつまで続くのか。

私は、海老蔵も、

そしてこの事件に熱中するマスコミも、

さらには、

こんな下らない事件に関心を持つ日本国民も、

すべて卑怯者であると、

思う。


なぜなら今は

日本最大の国難の時代なのだから。

「ネット時代」

と騒がれようとも、

まだまだテレビの時代だ。

私は仏陀から、

「心の世界は一念三千の世界である」

と教わっている。

つまり心の中にある想いの針は、

ユラユラと揺れ動き、

闘争と破壊の修羅地獄の世界に向いたり、

性欲と情欲の色情地獄の世界に向いたりする一方で、

心の中にある想いの針が、

安らかな天使の世界に通じることもあり、

天国と地獄は、

現在ただいまの、

心の中に存在していると、

そう私は教わっているわけだ。


そしてこの

「インターネットの世界」

というものは、

この「一念三千の世界」に、

良く似ていると、

私は考える。


なぜなら、

自分が関心や興味があるワードを打って、

検索するために、

自分の心の中にある想いが、

インターネットの世界を

泳ぎ渡っていくからだ。


だから、

私が「日本最大の国難」

というブログを作ろうとも、

興味や関心が、

グルメについて、

ファッションについて、

性についてあっても、

もしも国家や政治について

興味や関心が全くなければ、

永遠に私のブログに遭遇しないことも

十分に可能性としてはありえるわけだ。


だからまぁ、

あえて芸能ニュースなどを、

私はたまに取り上げて、

国難の話と嚙み合わせて

記事を書いているのだけれども。


こうしたことを踏まえて、

私は、

この日本最大の国難の時に、

海老蔵事件ごときを追うマスコミも、

それに熱中する一部の国民も、

やはり卑怯だと思う。


たとえば、

華やかなイメージの強い坂本竜馬も、

幕府から追われる身となり、

金銭もろくに無くなって、

西郷隆盛の嫁に

「使い古しでいいから
 褌(ふんどし)をくれないか」

と頼んだ。

その話を聞いた西郷隆盛は、

「彼は国家のために
 天下を奔走(ほんそう)している人であるから、
 新しいのを買って差し上げなさい」

と、その様に嫁に言ったほど、

竜馬は貧しい生活を強いられた時もあった。

この国を築き、

時代を進めてきた先人たちが、

もしも己一人だけのことを

考えて生きていたら、

この国は大きく変わっていただろう。

しかしかつてのこの国の男たちは、

じっと座していられなかった。

なぜなら彼らは、

優しさが持っている勇ましさゆえに、

熱く烈(はげ)しかったからだ。

私たち人間という生き物は、

ともすれば己に甘くなり、

人生を楽なほうへ、

楽ね方へと進めていきがちだが、

しかしそれでも、

かつての国の男たちは己に厳しく生きて、

天下国家に対する使命を決して忘れなかった。

志というものを手ばなすことはなかった、

それがこの国を築き、

そして時代を進めてきた男たちである。

吉田松陰を始めとする多くの志士たちが、

欧米列強に日本を侵略させないために

幕府に抗い、

そして坂本竜馬を始めとする多くの志士が、

身分の無い新しい時代を夢見て戦ったが、

しかし彼らの多くが明治の世を見ることなく、

この世を去った。

殺されていった。

それは当然ながら、

自分の名を後世に轟(とどろ)かして、

銅像が建てられたかったからなどではなく、

そんなつまらない自己顕示欲などではない。

彼らは己の手柄が欲しかったのではなく、

国を護り、

そして新たな素晴らしい時代を築きたかった。

坂本竜馬が常々、

「私情を挟まずに天下国家を第一に考えろ」

と人々に語っていたように、

彼らは国とか、時代とか、

そうしたものに対して熱かったために、

彼らはじっと座していられなかった。

彼らは不平等で不自由な

そんな面白くない時代を変えたかった。

そして彼らは、

日本が外国に侵略されて、

多くの人々が不幸せになっていくことに

耐えられなかった。

つまり彼らは、

自分の預金通帳の残高とか、

人々からの自分の評価とか、

自分の社会的な地位とか、

そんなものに対して熱かったのでなく、

あるいは自分の身近な

家族や友人に対してのみ熱かったのでもない。

そうして先人たちが護り抜いた国に、

先人たちが進めてきた時代に、

我々は今、生きている。

そうした中で、

後世の我々が、

先人たちへの感謝を忘れるばかりか、

男たちが国の危機を知ろうともせず、

時代の腐敗にも見向きせず、

ただ豊かな国と時代に

あぐらをかいて、

それを満喫するだけであるならば、

「勇気が無い」というよりも、

それは卑怯なことに他ならない。

「義を見てせざるは勇無き也(なり)」

と云うが、

男として生まれ、

男として生きようとする者が、

正義を目の当たりにしながらも、

立ち上がらずに、

その国と時代の中で、

利益と快楽を貪り続けるということは、

勇気が無いばかりか、

卑怯なことに他ならない。

あえて厳しい言葉を述べさせて頂くが、

「現代の日本国民の中には卑怯者が多い」

と、

やはりそう言わざるをえない。

ならば我ら日本国民は、

少しでも卑怯者にならないために、

努力精進していくべきだろう。


前回の記事でも述べたが、

「真の優しさ」とは、

自分の幸せを願うものではなく、

他の人々の幸せを想うものである。


そうである以上、

必ずしも相手の人が今現在、

「欲しい」

と望んでいるものを与えることが、

正しい優しさになるとは限らない。


なぜなら時には、

相手が全く望んでいない

ことを与えることが、

正しい優しさになる場合も

多々あるからだ。

たとえばアルコール中毒患者が

目の前にいたとして、

その者がアルコールを欲していて、

アルコールをあげることが、

本当の優しさになるかと言えば、

そうではない。

もしもアルコール中毒患者に、

好きなだけアルコールを与えるのならば、

それは明らかに、

結果的に相手を不幸せにしているのであり、

その「優しさ」は、

明らかに「間違った優しさ」と言えるだろう。

このように、

「優しさ」というものを、

「他の人々の幸せを願うもの」

と仮定するならば、

「優しさ」というものには、

「正しいもの」と「間違ったもの」

があることに、

我々は気が付けるわけだ。


なぜならば、

すでに何度も述べていて、

あえてもう一度述べさせて頂くが、

「正義」というものは、

「人・時・場」によって、

移り変わっていくからである。

たとえば、

音楽の授業の時に、

生徒が教師の指導のもと、

皆で歌を唄う行為は善だが、

しかし数学の授業をしている時に、

生徒が勝手に歌を唄い始めたら、

それはまぎれもなく悪である。

またアルコールのことで言えば、

結婚式などの祝いの席で、

お酒を口にすることは、

悪にはならないことのほうが多いが、

しかし車で式場に来ている者や

アルコール中毒患者で、

医者からアルコールを

止められている者が、

お酒を口にすることは、

やはり悪である。

このように、

「正義」というものは

行為によって決まるのではなく、

「人と時と場」によって移り変わるために、

同じ行為であっても、

人によって、時によって、場によって、

善にもなり、

そして悪にもあるわけである。

そして、

人と時と場によって移り変わる

正義であるからこそ、

善悪を見抜いた上で、

優しさを投げかけることが、

我々人間には大切なのである。

つまり誰かを本当に幸せにするためには、

時にはその誰かの望みを叶えないことも、

「正しい優しさ」

に他ならないわけだから、

「真の優しさ」というものは、

時にポカポカと暖かい

太陽の様な穏やかなものでもあるが、

時には北風のような厳しさをも、

ごく一部に持っているのである。

すなわち愛とは、

時に寛容であり、

時に峻厳でもあるのだ。

峻厳さを少しも持ち合わせていない優しさは、

アルコール中毒患者に、

アルコールを与えるようなものであり、

そんな相手を破滅させる優しさは、

むしろ存在しないほうが良い。

そして「正しい優しさ」とは、

時に厳しいものであるために、

相手にはその厳しい優しさが、

本当の優しさとは

感じられないことさえあるのだ。

風邪をひいた人に

松葉杖を与えることは、

正しい愛にはならない。

骨折した人に

風邪薬を与えることも、

正しい愛にはならない。

もちろんどちらも、

確かにそれは愛かもしれないが、

しかし風邪をひいた人には風邪薬を、

骨折した人には松葉杖を与えることが、

正しい愛である。

男性であろうと、

女性であろうと、

我々人間は、

相手の病に応じた薬を施すことが大切であり、

これを仏教では、

「応病施薬」

と言うが、

正義を見抜くために求められるのは、

「知慧(ちえ)」である。

つまり正義を見抜ける

知慧を持った優しい人は、

相手に応じた薬を施すために、

たとえ相手が甘い蜂蜜を望んでいようとも、

時には苦い薬を施すこともあるわけでだ。

このように、

「真の優しさ」というものには、

「勇気」のみならず、

「正義」というものを見抜いていく

「智慧」というものをも、

含んでいなければならない。


優しき者は賢くなければならない。

優しき者は悟り高くなければならない。


もちろん我々人間は、

神や仏ではないのだから、

常に正義を見抜いて、

常に「正しさ」を選び取って

優しさを誰かに投げかけることなど、

出来るわけもない。

ならば我々人間は、

男であろうと、女性であろうと、

正義を見抜いていくために、

智慧を身につける努力を

行っていくべきだろう。

もしもこれを全くおこなわずに、

ただ優しく勇ましく生きたとしても、

その優しさが根本から間違っていて、

他の人々を不幸せにするばかりか、

社会にも多大な迷惑をかけてしまう、

ということもありえる。

「ジ・アウトサイダーの我が良き友へ」
http://ameblo.jp/misumarukai/entry-10726343785.html


という記事でも述べたが、

男らしいとは優しいことである。

そして男らしいことが

優しいことであり、

優しさというものには、

正しいものと間違っているものがある以上、

さらには、

およそ我々人間の中に、

神仏のように

常に正義を見抜ける者など

一人としているわけもないのだから、

男らしい優しさとは、

「正しさ」というものを追求していく中にある、

と、そう言えるだろう。


そして前回の記事で、

「男らしいは勇ましいことでもある」と、

そう述べさせて頂いたが、

つまり、

男らしさとは、優しいことであり、

そして勇ましいことであり、

正しさを追求していくことである、

ということを述べさせて頂いたわけだ。

しかし優しく勇ましく、

そして正しさを追求していくのは、

何も男ばかりではなく、

当然のことながら女性も同じである。

我々男と女性が大きく異なる点は、

やはり「ジ・アウトサイダーの我が良き友へ」
http://ameblo.jp/misumarukai/entry-10726343785.html
でも述べた、

「個の使命と共に公の使命がある」

ということと、

そして前回の記事で述べた男の専売特許である、

「勇ましさ」にあると言えるだろう。


すなわち男らしさとは、

公の使命を忘れることなく、

優しく、勇ましく、正しく生きていこうとする

その「気概」にあると言えるわけだ。


気概とは、

困難や試練や誘惑や批判に

打ち負けることなく生き抜く、

強い意志のことである。

今日一日、

「公の使命を忘れることなく
 男らしく生きよう、
 優しく生きよう、勇ましく生きよう、
 正しさを追求して生きていこう」

と、そう決心して生きることは、

実は誰にでもできることだ。

しかし一週間、

一ヶ月、

一年、

十年、

あるいは数十年と、

その決心を忘れることなく

生き続けていくためには、

やはり

困難や試練や誘惑や批判に打ち負けないために、

「気概」

というものが必要である。

気概ある者だからこそ、

「決心」というものを

持続させていくことができるのであり、

気概無き者は、

どんな決心をしようとも、

すぐにその決心を忘れしまう。

そしてこの

「一個の男として、男らしく生きていこう」

と、そう決心し、

男としての気概を持って生きていく者こそ、

「優れた男」と、

そう言えるだろう。

なぜならば、

日本語の「優しい」という漢字と、

「優れる」という漢字が、

同じ「優」という一文字で表しているように、

「真に優しい」ということこそ

「真に優れている」

ということに他ならないからだ。



つまり真に優れた男とは、

真に優しい男であり、

そして

「男らしく生きよう」と、

男としての気概を持って

生きていく男であると、

私はそう考えている。


常々、

「日本は最大の国難を迎えている」

と述べているが、

その日本最大の国難とは、

「男らしく生きよう」

とするその気概が、

この国から

失われてしまったことに他ならない。

ならば今こそ

我々日本男児たちは、

男としての気概を取り戻すべきであり、

気概を忘れて、

海老蔵事件ごときに熱中することは、

卑怯旋盤な行為であると、

あえて厳しい言葉を、

私は述べておきたい。

もしも貴方が

まだ日本の国難に気づいていないのならば、

↓このブログをご覧になって下さい。
「日本最大の国難」
http://ameblo.jp/masuraonokaze/