前田日明氏にも負けてなるものか | 中国に侵略されている日本を護り抜け

中国に侵略されている日本を護り抜け

~この日本には、もう国を護とうろする男はいないのだろうか。武力衝突だけが戦争ではない。すでに中国共産党による情報の戦争、そして侵略は始まっている。眠っている男たちよ目を覚ませ。大和魂よ、蘇れ!そしてこの美し国を護り抜け!~

昨日はディファ有明に行った。

「ジ・アウトサイダー」の会場に。


久しぶりだった。


シンジ(大嶽)も、清水も、

オヤジのわりには頑張った。


また吉永君や黒石君も、

久しぶりに会えて良かった。


渋谷君は逃げるように去っていったが・・・。


その他にも、

川村くんや雑誌のライターの方など、

多くの方と再会できた。


貧乏暇無しなために、

練習も出来ず、

しかも未だ体も出来上がっていないので、

「いつ」

とハッキリ明言することは出来ませんが、

私だってやりますよ。

次か、次の次か、それは分かりませんが。

「勇ましさ」

というもので、

私も、他の男たちに負けてはおられません。

なぜならすでに「武道と格闘技の違い」
http://ameblo.jp/misumarukai/entry-10725635896.html

で述べたように、

「格闘技」と「武道」と異なり、

この日本の国難において、

日本男児たちが国難の事実に気づかずに、

格闘技に熱中して、

その国難を歴史上、最大なものへと

変えてしまい、

その結果、

この日本がチベットやウイグルのように

消滅してしまうことは、

やはり悪だからです。


この

モンゴルが日本に攻めてきた時も、

ペリーが黒船でやってきた時も、

日本が大東亜戦争で負けた時も、

国難であり、

今と同様な時代でした。

しかしどの時代において、

日本男児たちは、

強く勇ましく、

そして優しく暖かく、

この日本を護り抜いてきたのです。


しかし国を護り、

時代を進めるはずの男たちが、

豪傑猛者たちが、

この国難に気づいていないために、

今ある日本の国難は、

歴史上最大の国難へと成り果ててしまい、

何も知らない方は、

鼻で笑うかもしれませんが、

今、この国は滅びの危機にあるのです。


昨日、私のブログのコメントの欄に、

「国の安全保障について、
 きちんとブログで書いて下さい」

と、そうおっしゃられていた方がいましたが、

ハッキリ言って、

今、この国の男たちは、

国の安全保障について語っても、

「宇宙人の言葉」

に聞こえてしまうのです。

そこまでこの国の男たちは今、

この国難の時代に、

「国」というものに対して、

関心と興味が無いのです。


だからこそ、

「今という時代は、
 日本最大の国難の時代である」

と幾度も、そう申し上げているのです。


日本の本当の敵は、

中国北朝鮮ではないのです。

日本国民の日本に対する「無関心」なのです。


ならば格闘技にのみ熱中し、

国に対して無関心となり、

国難を忘却すること、

これすなわち悪であります。

その一方で、「武道と格闘技の違い」
でも述べたように、

武道とは中道の一部でありますから、

眠りし日本の男たちを目覚めさせるために、

男子としての本懐を教え、

国難の事実を伝え、

そして過剰な格闘技熱を

少しでも冷まそうと戦うことは、

悪を押し留めて、

善を追求しているのだから、

これはまさしく正義です。

昨日の「ジ・アウトサイダーの我が良き友へ」

という記事の中でも、

書かせて頂きましたが、

「男らしいとは、優しいこと」です。

優しい男こそ、

本当に男らしい男なのです。

では「優しさ」とは何か、

今日は、それを語らせて頂きたいと思います。



たとえば、

二人の人がいたとして、

そしてその二人が、

湖で白鳥にパンを与えていたとする。

一人の人は、

「白鳥が少しでも幸せになって欲しい」、

「白鳥を見て誰かが幸せになって欲しい」、

そんな想いで餌を与えている。

つまりこちらの人は、

誰かのために与えているわけだ。

もう一方の人は、

「白鳥が大きくなったら、自分が食べてしまおう」

「善い人間の素振りを見せて、
 人々からの自分の評価を高めよう」

そんな想いで餌を与えている。

つまりこちらの人は、

自分のために与えているわけだ。

誰かのためにパンを与える人も、

自分のためにパンを与える人も、

行動だけを見れば、

どちらも共に同じに見えるが、

しかし優しい人は、前者に他ならない。

たとえ言葉や行動が同じに見えようとも、

心の中で他の人に対して

「与えたい」と想う人、

誰かに「幸せに成って欲しい」と想う人こそが、

「優しい人」である。

そしてその「与えたい」という想い、

「幸せに成って欲しい」という想い、

もしくは

「不幸せにだけは成って欲しくない」という想い、

これらの「与える愛の想い」こそが、

本当の「思いやり」であり、

「労わり」であり、

そして「慈しみ」である。

そしてその

「思いやり」、「労わり」、「慈しみ」

といった「愛を与えるようとする想い」が、

言葉や行動として明確に現れた時、

そこに「本当の優しさ」というものが

現出するわけだ。

だから「優しさ」とは、

言葉や行動に現れるものだが、

言葉や行動から「優しさ」が

生まれてくる訳ではなく、

「優しさ」とは心から生まれてくるものであり、

「他に与えたい」という想いが

目に見える形で現れた時に存在するのである。

そして

「国は人生の土台である以上、

 国のために尽くし、

 世界の平和に貢献していくことは、

 人を愛することに等しい」

と何度も述べさせて頂いてきたが、

「国を護ろう、時代を進めよう」と、

他に与える心によって、

勇気を持って立ち上がる男は、

男らしい優しい男であるが、

しかしその一方で、

自分の富や名誉や地位、

そして生活と、

自分の周りの身近な人々だけのことを考えて、

天下国家について何も考えることなく、

男としての「公の使命」を完全に忘れて生きることは、

言葉を変えれば、

「優しさに欠ける男であり、男らしさにかけている」

ということに他ならない。


しかしただ優しいだけで、

「勇気」というものが全く無いならば、

その「優しさ」はやはり偽物である。

なぜなら「真の勇ましさ」というものは、

「真の優しさ」に他ならないからだ。


たとえば男性であろうが、

女性であろうが、

雨が降っている時、

偶然にも自分が傘を二本持っていて、

しかもそのうちの一本は、

あまり必要ではない

使い捨てのような傘であったとする。

そして目の前には、

傘が無く、

ずぶ濡れの見知らぬ人がいたとして、

「傘を差し上げましょうか?」と

声を掛けるにも、

やはりささやかな一つの勇気がいる。

また自分が満席のバスに乗っていて、

自分は座っている状況で、

途中からお年寄りが乗って来たとして、

立ち上がって

「こちらの席をどうぞ」と、

声をかけるにも、

やはりささやかな勇気がいる。


このように「本当の勇気」というものは、

愛を誰かに与える時、

誰かに優しさを投げかける時、

思いやりの心でもって人に接する時、

こうした時にこそ、

現れるものである。


あるいは、

「義を見てせざるは勇無き也(なり)」

と昔から云われているように、

「正しさ」というものを目の前にしながらも、

それを行えないことこそ、

臆病なことに他ならないのだ。


国の危機を知り、

時代の腐敗を知り、

天下国家の不正義を目の当たりにしながらも、

それでもじっと座して、

正義のために立ち上がらないのならば、

そこに本物の勇気など微塵も存在しない。


つまり女性であろうと、

男であろうと、

我々人間が、

愛と正義というものによって

実際に行動していくために、

本当の勇気というものが

必要不可欠なのである。


つまり、

ただただ勇ましいのではなく、

その勇ましさの裏には、

愛と正義が裏打ちされていなければ、

その勇ましさは偽物であり、

ただ周りの人々や社会や国家に対して、

多大な迷惑をかけるのならば、

やはりそれは蛮勇に他ならない。


人が傷つく言葉を、

平然と吐き捨てることができることをもって、

それを本当の勇ましさとは言わない。


喧嘩などの暴力でもって

誰かを押さえつけることができる立場に立ち、

そして権勢を振るうことをもって、

それを本当の勇ましさとは言わない。


威張り散らし、

周りの人々を怖がらせ、

戦々恐々とさせて、

そしてそれを自慢する愚かな心をもって、

それを本当の勇ましさとは言わない。


もう一度言っておくが、

真の勇気とは、

本当の勇ましさとは、

愛と正義に裏打ちされていなければならないのだ。


そして本当の勇気が、

心の中にある勇気が、

目に見える形で現れて、

人が人に優しさを投げかけた時、

そこに本当の「勇ましさ」というものが、

現出してくるのである。


しかしこの国難の時代に、

「勇気」と「勇ましさ」をはき違えて、

蛮勇を奮う男のいかに多きことか・・・


人々を傷つけ、泣かし、威張り散らし、

メッキの勇ましさをもってして、

「自分は勇ましい男である」

と、そう勘違いする者のいかに多きことか・・・


そしてそれが結果的に、

この国難を歴史上、

最大なものへと変えてしまっているのならば、

今こそ本当の勇気について語る必要が、

この国はあると言えるだろう。


なぜなら我々男という生き物は、

やはり女性たちに比べて、

どちらかといえば、

この「勇気」という点においては、

優れている面を持っているからである。

言葉を変えれば、

本来、男の勇気とは、

女性たちの勇気に比べて

烈(はげ)しいものであると、

そう言い切ることができるだろう。


女性たちの優しさが、

泣き止まない赤ん坊を胸に抱き、

子守唄を唄ってあげるように、

あるいはスラム街で死に逝く人々に、

マザー・テレサが愛を投げかけたように、

女性の優しさが、

どちらかと言えば

「穏やかな優しさ」であるのに対して、

男たちの優しさとは、

泣き止まない赤ん坊を腕に抱きながらも、

腐敗した世の中に立ち向かっていくように、

あるいは坂本竜馬のように

時代を進めるべく立ち上がり、

スラム街そのものを

豊かな街へと発展させていくような、

男の優しさとは、

どちらかと言えば、

熱く、熱く、

煮えたぎる烈(はげ)しいものである。


もちろん烈しいことでもって、

「優しさ」を見失うならば、

それは本末転倒であり、

「勇ましさ」の中に「優しさ」が無ければ、

それは無に等しいものだが、

男の持つ勇ましさ、

それは烈しさでもあるのだ。

ゆえにこそ、

男という生き物は勇まし生き物なのだ。


つまりこの「勇ましさ」というものは、

我々男どもの「専売特許」と言っても良いかもしれない。



「男らしいとは優しいことである」

とこれまで述べてきた。

そして、

「勇気とは愛と正義に裏打ちされているものであり、
 男の勇ましさとは烈(はげ)しいものである」

とも述べさせて頂いた。

つまり

「男らしい男とは、
 烈しく優しく勇ましい男である」

と、私はそう考えている。


今、日本は国難の時代である。

しかも日本の男たちが、

その国難の事実に気づかぬために、

今、日本は本当に中国によって

滅びようとしている。


私は問いたい。

日本が滅んだ時、

日本の男たちよ、

豪傑猛者たちよ、

あなた方は、その時、

どうするというのか?

ダライ・ラマのように、

インドに亡命して、

外国で祖国独立を願うのか?

しかしカナダの中国人留学生が、

インターネット上で、

「チベットは過去も、現在も、未来も、
 永遠に中国の領土である」

と主張して、

世界を騒がせたように、

チベットでは

過去も、現在も、そして未来までも、

悲惨な殺戮が行われている。

日本が滅んだ時、

日本の男たちは、

祖国を捨てて中国人となり、

中国語を覚えて、

自由の無い生活を過ごしていくのか?

「自由」こそ、

何ものにも変えられない、

我ら人間にとって大切な財産ではないか?


男としての誇りは、

日本男児としての誇りは、

戦う男としての誇りは、

どこに行ってしまったというのか?


日本の男たち、豪傑猛者たち、

勇気をはき違えることなかれ。

国の意味を誤解することなかれ。


今こそ日本の我々男どもは、

勇気の本当の意味を知り、

国の真実の意味を知り、

国士として勇気をもって立ち上がるべきである。


国士とは、

「国」というものを通して人々に愛を捧げる、

優しく勇ましい人物のことだが、

我ら日本男児たちは、

この国難の時代だからこそ、

国士に、烈士に、なっていかねばならない。

そして、

日本の男たちが、

肉体を戦わせて競い合う時代ではなく、

「我こそ国士である、
 我こそ烈士である、
 我こそ国士無双の男である」

と、

そう競い合う時代が訪れれば、

この国難など簡単に打破することもできるし、

また誰かが、

国の安全保障について、

憲法について語っても、

その言葉を誰も、

「宇宙人の言葉」とは

思わないことだろう。


国士無双とは、文字通り、

「その国に二つといない無双の志士」

のことである。


「いつ」とハッキリと言えないが、

私はまだまだ戦うつもりでいるが、

しかし私の敵は、リングの上にはいない。

私が競う相手は、挌闘家などでもない。

だから私の敵は前田日明氏でもない。

キッドでも、マサトでもない。

私の敵、

それは日本国民の国に対する無関心であり、

私が競う相手、

それは日本男児すべてである。

なぜならまずはこの私が、

国士無双を目指すのだから。

前田日明氏よ、

シンジよ、清水よ、

あるいは、

雨宮よ、平原よ、大樹よ、鴨志田よ、ノブオよ、天野よ、大原よ、

かつてこの東京で

派手に暴れまわった仲間たちよ、

もしくは

吉永君、黒石君、渋谷君、川村君、土橋君、

さには山本キッド、若旦那、

親しくはないが同年代として、綾小路よ、

あなた方は、この私と

男子としての本懐を競い、

国士無双を競って、

勝つ自信がおありだろうか?

私の胸の中には、

「負けてなるものか」

という想いがある。

なぜなら、

日本男児一人一人のそうした想いこそが、

この国に国士無双の時代を築き、

そしてこの国を護り、

栄えさせていくのだろうから。


さぁ国を護り、国をさらに発展させ、

日本国民を幸せにし、

世界を平和にするために、

国士無双を競い合う時代を

共に目指そうではないか。

私はそのように思う。

もしも貴方が、

今ある日本の国難をまだ知らないのならば、

↓こちらのブログをどうぞ。
「日本最大の国難」
http://ameblo.jp/masuraonokaze/