待ち合わせたお店に行くと柴崎はまだ来ていなかったので千代美は先に座ってビールを頼んだ。取り合えず一杯飲まないと気持ちが落ち着かないと思った。柴崎の提案を受け入れはしたが全くもって納得はしていない。
(なんで私が…)
柴崎に夕飯を奢らなければいけないのだと思う。第一、柴崎はお金持ちの筈だ、何も千代美に奢って貰わなければいけないほど生活に困っているというわけでもないだろう、あんなに高そうなマンションに住んでいるくせにと思う。
「やあ、待たせたかな」
いつの間に入って来たのか目の前に腰を掛けた柴崎が千代美の前に置かれている空のビアグラスに目をやりながら声を掛けてきた。分厚い黒縁の眼鏡にボサボサの髪、昨日と同じ風采の上がらない男のいで立ちだ。
「あ、いえ。ちょっと喉が渇いていて」
「そう、あんまり飲むとまた酔っぱらうよ」
そう言って千代美を見た柴崎の笑顔が嘲笑しているように見えて千代美はまた腹立たしいものが込み上げてくるのをぐっと堪えた。
「昨日はご迷惑をおかけしまして」
そう言って千代美は財布から三千円を取り出して柴崎の目の前に差し出す。
「ありがとう」
そう言うと柴崎は躊躇いもなくその三千円を自分の胸ポケットに入れた。本当はやっぱりいらないよとか言ってくれるかと内心思っていた千代美の期待はあっさりと裏切られた。
(どこがお金持ちなのよ!)
昼間そう言っていた同僚の言葉を思い出して千代美はそう心の中で反論する。
「え…っと、じゃ、僕もビールを、それからっと」
柴崎は店員を呼んで何の遠慮もなく食べ物を注文する。千代美は今朝、この柴崎の事をちょっといい男だと思った事を激しく後悔した。
「どうしたの?」
柴崎の事をじっと見ている視線に気が付いたのか彼はメニューから顔を上げて千代美を見た。
「あ、いいえ」
「あ、もしかしたら僕の事厚かましいとかなんとか思っている?」
「い、いえ」
(思っているに決まっているじゃない!)
千代美はまたも心で叫ぶ。
「思うわけないか、なんと言っても約束なのだから。もし僕の事を厚かましいなんて思うとしたら君の方が相当だからね」
「私?私がどうして厚かましいんですか」
「だって、初対面の男の部屋に上がり込んでぐうすか寝ていたんだから」
「ぐうすか…」
そんな言い方しなくても良いではないかと思う。
「僕はあの鼾に耐えて寝ていたんだよ、否、殆ど眠れなかったから今日はすっかり寝不足だ」
「い、鼾?」
鼾など掻いていたのか?だが自分では分からない。返す返すも失態だったと思わずにはいられない。
「大変、申し訳ありませんでした!」
千代美は二杯目のビールを飲み干すとテーブルの上に空のジョッキをドンと置いて頭を下げた。無意識に両の拳に力が入る。
「で、でもあなただって酩酊状態の私を」
「君を?何?」
「自分の部屋に連れ込んだんじゃありませんか」
「それは違うね、どうして僕が君を連れ込んだりする必要があるの」
「ど、どうしてって、それは…違うって何ですか?」
「連れ込むと言う言葉は昨日の場合当て嵌まらない。君が酩酊状態だったのは確かだよ。だから君は僕が何度聞いても自分の家の住所を言えなかった。道端に置いて帰るのも可哀そうだと思って僕は仕方なく自分のマンションに連れて帰った。言わば親切心だ」
(親切心、仕方なく…)
柴崎の言葉がいちいち千代美の心に引っ掛かる。
「で、でも私起きたら、は、裸だったんですよ。しかもあなたは横で寝ているし」
「当たり前でしょう、僕のベッドなのだから。何?君は人の家に上がり込んでベッドを占領した上に、僕にソファーででも寝ろとか言うんじゃないでしょうね」
あんなに広いソファーなら十分寝れるじゃないかと思ったがそんなことを言ったらこの柴崎は何を言うか分からないと思って口を噤んだ。
「それにね、僕が服を脱がしたわけじゃない。部屋に入ったら君が暑いと言って勝手にポンポンと服を抜き捨ててさっさと僕のベッドに入ったんだ。僕は我慢してその隣で寝ただけだよ」
「が、我慢?」
思わず口に出てしまった。もっと他に言いようはないのかと思う。
「で、でもあなたは昨日、私に、その」
「君に?ああ、その事。君、覚えていないの?」
「全く…」
「自分から裸になって眠るような女性に食指は全くそそられなかったよ。それでも女性からの誘いを無下に断るのもどうかと、」
「誘いって、私が誘ったって言うんですか?」
「自分で裸になって人のベッドに入るって、誘っている以外に何があるの?」
そう言われるとぐうの音も出ない、自分で服を脱いだという記憶もないが、そうで無い記憶もないから反論もしようにも出来ない。