淫雨ー33

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幸喜の言っていた通り、午後になると沢山の弔問客がやってきて美野里は宇部隆三の眠っている部屋に近づく事すら出来なくなった。もう帰っても良かったのだが何となく帰りそびれ、そのまま手伝いをさせて貰う事になった。人は沢山居たので美野里の事をどこの誰かなどと気に留める者は誰もいなかった。幸喜と隆明は訪問してくる客達の応対に追われてその後、美野里と会話する事は殆どなかったが朝、あの部屋にいた女性と話をする事が出来た。彼女は隆明の妻だった。部屋にいた子達は彼らの子供であった。

「あの、お兄さんは、幸喜さんの奥さんとお子さんはここにはいらっしゃっていないのですか」

「お義兄様はご結婚されていないのですよ」

「え?」

「何度も良いお話があったんですけれど、お義兄様はどういうわけか乗り気なられなくて」

「そう、なんですか。で、でも、昔お付き合いしていらした方とか…」

「さあ、私がこの家に入ってからはそういうお話はあまり聞いた事がありません。だから私、ここだけのお話ですけどお義兄様は女性に興味がないのでは?なんて思った事もあるんですよ」

そう言って隆明の妻は後半の部分を声を顰めて話して小さく笑った。

「内緒ですよ」

「あ、え、ええ」

こんな家に嫁いだ女性だからもっと気位の高い女性かと思っていたが意外と気さくな感じがした。自分が私生児だからと周りの人に偏見の目で見られていると思っていた頃があった。だが逆にこういう家の人だからと思うのも自分の偏見なのだと美野里は改めて思った。

通夜、葬儀とバタバタしている間に終わった。美野里はこの二日間に起こった事がまだ自分の身の上の事だとはどこか信じ難いものがあった。ただ、生きている間に父という人物と一度で良いから話がしてみたかったと火葬場に向かう車を見送りながらふと思った。そして一週間後に幸喜から職場の方に連絡があった。無事に初七日を終え、少し落ち着いたので一度家の方に来てくれないかというので美野里は仕事を終えるとその足で幸喜の家に向かった。

「食事の用意をしているんだ。良かったら一緒に食べていって。弟も一度君とゆっくり話がしたいと言っているから」

「はい」

美野里は素直に応じた。二人が兄と分かったからか不思議と気持ちは落ち着いていた。ただ、美野里の中には幸喜を兄とは思えない部分が未だ存在してはいたが。

「弟はまだ帰っていないようだから少し、話をしよう」

「私、何かお手伝いする事ありませんか」

美野里は幸喜と一緒に迎えに出てくれた隆明の妻の寛子に尋ねた。

「大丈夫、お手伝いさんもいるので。美野里さんはお義兄様とゆっくりお話していらして。葬儀の時はゆっくり出来なかったでしょうし、積もる話もあるでしょう。ご兄妹としてお話されたい事もあるでしょうし」

「兄妹…」

「じゃ、こっちへ」

幸喜に促されて美野里はリビングに案内された。広々とした部屋に大きなソファーセットが並べられていた。

「座って」

言われるまま美野里は幸喜の前に座る。

「なんだかちょっと不思議な気分だね」

「はい…。あの、宇部さんは、あの母が亡くなった時から私の事妹だって知っていらしたのですか」

「うん、うちの母が死んだ後、母の荷物を整理していたら古い日記が出てきてね。君達の事が書いてあった。それで初めて父の子が他にいる事を知った。僕はそれがどんな子か知りたくてこっそり調べて見に行った」

「あ、じゃ、もしかして短大のとき、私の事を聞いて回っていた男の人がいるって、」

「うん、それ、僕。そしたらお母さんがあんな事件で亡くなられて心配になって様子を見ていた」

「じゃ、初めて会ったときも偶々通り掛ったわけじゃなかったんですね」

「そう、その後、居酒屋に行ったのも偶然じゃない」

「そう、だったんですか…」

幸喜の一連の行動は全て美野里を妹として思っていてくれたという理由からだったのだ。それを美野里が勝手に勘違いしていたのだ。それなのに、そうと分かっても美野里の胸にはまだどこか幸喜に対して消えない思いが残っている。こうして目の前に幸喜がいると思うだけで胸が苦しくなる。

暫くすると隆明が帰って来て食事会が始まった。隆明も寛子も美野里を家族として扱ってくれた。寛子は美野里よりまだ若いがとても気配りの出来るまさに政治家の妻といった感じの女性であった。会話は楽しかった。隆明との会話は自然に彼を兄と思える気がした。なのに――。

帰りは幸喜が車で送ってくれた。

「あの時、」

「え?」

「あの時、付き合っていらっしゃった方とは?ご結婚には到らなかったんですね」

美野里は思い切って尋ねた。

「付き合っていた?あ、ああ、あれね、あれは嘘」

「嘘?」

思わず美野里は幸喜を見る。幸喜は車を運転しながら前を見たまま話し出した。

「このままじゃ拙いと思ったんだ…」

「拙いって?」

「君の事を妹とは思えなくなっていたから…このまま会い続けていたら道を踏み外さないでいられる自信が無かった。妹、なのにね」

(ああ…)

美野里は胸が熱くなるのを感じた。同じだったのだと、そう思った。ずっと支(つか)えていた胸の錘(おもり)が落ちていくような気がした。どうにもならない現実だがそれでも今の幸喜の言葉にどこか救われたような気がした。その後はお互い何も言葉を発しなかった。マンションの前で幸喜の車が見えなくなるまで美野里は見送った。これが最後だと、そう思った。隆明達はまたいつでも遊びに来てくれれば良いと言ってくれたが美野里はもうあの家に足を向ける事も幸喜に会う事も二度と無いと思った。

(お兄さん…)

そう思うには辛過ぎる感情が美野里の胸を締め付ける。同じ思いを抱いていた、その事に喜びを感じてしまった、そして同時に変えられない現実が心を苛む。だから、もう逢えない――そう思った。




<淫雨―34へ続く>




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