五.
法医学研究室に入って一年が過ぎた。毎日は忙しく充実していた。
そんなある朝の事であった。ニュースを見ていたら速報が流れてきた。外務大臣の宇部隆三が心不全の為、急死したとの事であった。
宇部隆三は幸喜の父である。あの時は知らなかったが後で分かった。あの当時はまだ参議院議員で大臣にはなっていなかったが。初音がどこからか聞いてきて教えてくれたのだ。初音はそれに対しても文句を言っていた。「偉い政治家の息子だから何しても許されるとか思っているんじゃないの」などと言っていた。宇部隆三はその昔、色んな女性と浮名を流したとも噂されている人物である。若い頃は政治家より俳優の方が似合うのではないかと思われるような容姿をしていた。幸喜となんとなく雰囲気は似ている。だが顔はあまり似ていないように美野里は思った。幸喜より最近、政治の世界に入った弟の宇部隆明の方が父親の隆三に似ているように思われる。彼には一度だけ幸喜の家の前で会った事がある。当時は彼もまだ大学生だった。「父の跡は弟が継ぐから」そう言っていた幸喜の言葉が思い出される。そしてその通り幸喜の弟は政治家になった。幸喜の事はマスコミの話題には上らない。やはり彼は政治とは別の世界に行ったのだろうと思った。
(私には何も関係がないのに)
そう思いながらもどこか気になってしまう。宇部隆三がテレビとかに出ると何となく見てしまう。幸喜の面影を追っているのだろうか。それ程似ているわけではないのに、表情とか仕種とかどこか幸喜を思わせるのかもしれない。何となく懐かしい気持ちにさえなってしまう。それに昔、女性問題がいろいろあったなどと噂されているが美野里にはそうは見えない。なんだかとても誠実で優しそうに見える。民心にも人気があり次期首相とも目されているとかも聞いた事があった。とは言え、美野里とは別世界の人の事だ。大臣が死んだとて仕事が休みになるわけではない。支度を終えて丁度出ようとしたときだった、チャイムの鳴る音が響いた。時計はまだ朝の七時半、こんな時間に誰だろうと思った。誰か尋ねてくる予定も無い。一瞬、祖父母に何かあったのではと思ったが、それなら電話がかかってくる筈だ。十二年前母が亡くなったときと違って今は携帯電話というものもある。連絡はいつでも付けられる。
「はい」
美野里は恐る恐るインターホンを取る。
「樫原美野里さん?」
どこかで聞いた事のある声。心臓がピクッと反応するのを感じる。
「はい、そうです…」
無意識に動悸が速くなっていくような気がする。
「良かった、まだここにいた」
「あ、あの、どちら様でしょうか」
頭の中に一人の男性の姿が浮かぼうとする。だけど心がそんな筈は無いと否定する。
「あ、すみません。宇部です、宇部幸喜です」
これは夢なのか?そんな疑問が頭を過ぎる。
「宇部…さん?」
まさかという思いが走る。彼がここに来る事などあろう筈がない。
「覚えてもらってないかな…もう十年?も前に会ったきりだから」
「あ、いえ、あの、宇部幸喜さん?あの、母が亡くなった時に、」
「ええ、そうです。その宇部です」
「で、でも、どうして」
「君に頼みがあって」
「私に…ですか?」
そう答えるのと同時に先ほどの宇部大臣の訃報を思い出した。
「あ、あの、こんな時に何をしていらっしゃるんですか。お父様、お亡くなりになったんですよね」
「ああ、知っていたんだ」
「それは、さっきニュースで、」
「そうじゃなくて、あの人が僕の父親だって事」
「あ、え、ええ…」
「そうか、知っていたんだ。なら話が早い」
「早いって…」
「兎に角、すぐ降りてきてくれる?説明するから、あ、それから出来れば喪服も持ってきて」
「喪服?」
「急いで!」
「あ、あの、どういう…それに私、仕事が、」
「大丈夫、法医学研究室の方には休ませて貰うって連絡済だから」
「は?」
どうして幸喜が美野里の勤め先の事まで知っているのだと思う。
「兎に角、ここで待っているから早く来てくれる」
「は、はい」
切羽詰ったような幸喜の声に思わず返事をしてしまった。美野里は奥の部屋に戻りクローゼットから喪服を取り出すとバックに詰めて急いで下に降りた。エレベーターを降りるとマンションのエントランスの向こう側に幸喜の姿が見えた。胸が逸る。大学生だった幸喜がいきなり大人の男性になって現れたような感じだ。
「やあ、久しぶり」
懐かしい笑顔に胸が痛むような不思議な感覚が走る。
「お、お久しぶりです」
「随分と、」
「え?」
「随分と綺麗になったね。すっかり大人の女性だ」
「私、もう三十一です。大人というよりもうおばさんです」
「おばさんって、」
美野里の言葉に幸喜は苦笑した。
「さ、車、待たせてあるから」
そう言うと幸喜は表に止めてある黒いハイヤーを指差した。美野里には一体何がどうなっているのかわけが分からない。
<淫雨―32へ続く>