美野里は家計簿を元の場所に戻して下の段を開けた。美野里名義の預金通帳がすぐに目に入った。
「通帳ですね、開いてもらって良いですか」
通帳は何冊も重ねておいてあったが美野里はその一番上にあった新しいのを手にとって開いてみる。その手が思わず止まる。予想もしていなかった金額が目に飛び込んでくる。
(一、十、百…)
思わず数えてしまう。
「ほう、これは凄い金額だ」
刑事が感心するように声に出す。そこに示されていた金額は九千八百二十万。毎月多少の誤差はあるが五十万近いお金が入金されている。
「随分と溜め込んでおられたのですね、あなたの為ですかね」
「私の為…?」
母が美野里の為に貯金をしていたなんて考えた事も無い。
「だって、この通帳、あなたの名前じゃないですか」
確かにそうだ。
「ちょっと拝見させて下さいね」
そう言うと刑事はその下にあった古い通帳を順を追ってパラパラと捲って見る。
「今年の三月と四年前ですかね、ちょっと纏まったお金を出されてますね」
そう言われて美野里は刑事の見ているページを覗き込む。今年の三月には九十万、四年前には百四十万程引き出されている。
「三月…あ、もしかして、私の」
「何ですか?」
「私の大学の入学金かも…」
「ああ、成程、では、四年前は高校ですかね。お嬢さんは確か明星学園でしたね、私学ですし、それなりに掛かるでしょうしね」
「そう、ですね…」
「でもこの通帳はあなたが言っていたお父さんからの援助金が振り込まれている口座ではなさそうですね。振り込まれた記載はありませんし。他に通帳の類はありませんかね」
そう言われて美野里は引き出しの奥とその下の段を開けてみたが他の通帳は無かった。その代わり母の生命保険証書が出てきた。
「受取人はあなたですね。これも凄い金額だ一億円とは」
「一億…」
十九歳になったばかりの美野里には天文学的な数字にさえ思える。
「お母さんが亡くなってあなたの手に二億近いお金が手に入るという事ですか」
意味ありげな口調で話しながら刑事が美野里を見る。そう言われても美野里は何も答えられない。こんなお金や保険金の存在など今の今まで全く知らなかったのだから。
その後、箪笥や母の持ち物の中を色々開けてみたが他にこれと言った物は出てこなかった。そして何かが無くなっているかどうかも美野里には分からなかった。ただ刑事達の目がどこか美野里に疑いの目を向けているように感じられた。美野里に残されたお金や保険証書がそういう思いを抱かせてしまったのだろう。
「では、また何かありましたら連絡させて頂きますね。あなたも所在だけはいつも分かるようにしていて下さい」
「はい…」
刑事達と別れて祖父母の待つ家に帰る途中、美野里はどこかボーっとしていた。母が美野里の為にあんなお金を残していたなんて今までの母の言動からは全く想像ができない。美野里は母にとってただの生活の術ではなかったのか、ずっと母が自由とお金を手入れる為だけの道具に過ぎないのだと思っていた。美野里の将来の事など何一つ考えていない、ただ、自分の今後の安泰の為に美野里に良い男を見つけろと言っていたのではないのか、あの通帳は本当に美野里の為に残していた物なのだろうか、そんな事は俄かに信じがたい。だがあれだけのお金があれば美野里が良い男など見つけなくても母はこれから先、充分に生きていけるのではないのか。
「危ない!」
そんな事を考えながら歩いていたらいきなり叫び声と共に後ろから腕を掴まれた。
「え…!」
はっと気が付いたら目の前をトラックが通り過ぎて行って思わず冷や汗が出た。
「赤信号でしょう!」
腕を掴んでいた男性が少し声高にそう言って美野里を見る。
「あ、す、済みません。ありがとうございます」
「何、ぼうっと歩いているんですか」
男性は美野里を睨んでいるように感じる。
「はい、済みません」
そう言って美野里は頭を下げる。
「別に…」
男性が何か言いかけたので美野里は顔を上げる。
「別に、僕に謝ってもらっても仕方が無い。あなたが不注意で車に跳ねられても僕には関係ない。でも相手の車にしたらいい迷惑だ」
「そ、そうですね…」
その言葉に母の言葉を思い出す「あなたはぼうっとしているところがあるんだから道を歩くときはしっかり周りに注意を配りなさい。あなたみたいな子、跳ねたら車運転していた人が気の毒よ」母はよくそんな事を口にしていた。
(お母さん……)
不意に涙が込み上げてきた。母はもういないのだという事がいきなり現実感を帯びてくる。頭の中にさっき見た通帳や保険証書が浮かぶ、母は美野里の事を本当は考えていてくれていたのだろうか。色んな想いが溢れ出して訳が分からなくなる。
「ちょっ、ちょっと…、」
いきなり泣き出した美野里に目の前にいた男性は周りを見ながら立ち尽くしてしまった。