最後に近衛文麿が書いた「英米本位の平和主義を排す」の今日的な意味を考えたいと思います。

彼はこの論文で英米のような「現状維持国家」(status quo powers) とドイツのような「不満足国家」(revisionist powers)の関係を提示していたのですが、実はこの問題は国際政治でしばらくの間忘却されてきました。

なぜなら第2次世界大戦後、米ソ冷戦という2極構造がかなりの間続いてきたからです。アメリカもソビエトも領土や資源、人口などの点で、いわゆる「持てる国」の一員でした。

そのような国が、資本主義と社会主義をめぐって体制の競争をしていたわけですが、米ソともこの2局構造を根本的に破壊する動機はありませんでした。言いかえればこの2つの国は、基本的に「現状維持」を志向する国家だったのです。2極構造は彼らにスーパー・パワーの地位を約束していました。

もちろん核の抑止力が戦争を防いだという見方もできるでしょうが、私にとっては両者とも「現状維持国家」であったことの方が大きかったように思われます。

ところが、冷戦が終了し、アメリカの一極支配に陰りが見える現在、この古くて新しい対立が復活してきました。

イランの核をめぐる問題です。

現在、核の開発をしているイランに対してアメリカは戦前日本に行なったような厳しい経済制裁をかしています。

この経済制裁で本当にイランは核開発をやめるのでしょうか。それとも戦前の日本のように武力衝突にまで至ってしまうのでしょうか。

アメリカの国務省につとめたこともあるイラン系アメリカ人と思われるレザ・マラシという人物がイランの核問題の本質をForeign Policyに次のように書いています。

「核武装したイランは、現在の中東におけるパックス・アメリカーナを根本的に否定することになってしまう。そして、ここに問題がある。イランは、現在のアメリカが主導する秩序に従う気は全くないし、アメリカもイランの希望を入れて秩序を再編する気持ちなど全く持っていないのだ。このようなゼロ・サム・ゲームのお陰でどちらかがひるまない限り衝突する運命にある」

つまり、アメリカは現在の中東の秩序を維持したいのに対して、イランは現状を変更したいのです。

実は、近衛の提示したこの「現状維持国家」対「不満足国家」の対立をどのように扱えばよいかをイギリスのカーが『危機の20年』で考察しています。

「不満足国家が、平和的交渉によって不満を和らげることができると悟ったとき、『平和的変革』の一定の手順が次第に確立されていって、不満足国家の信頼を得るに至るであろう。そして、そのような体制が、承認されるとなると、調停は当然のことと考えられるようになり、実力による脅かしは形式的には捨てられないにしても一歩一歩後退してゆくはずだという希望が持たれる。」

簡単に言ってしまえば、相手に譲歩を求めたいならこちらも譲歩しろということです。

イランの場合で言えば、IAEAの元での一定限度内の核の濃縮を認めることと適切な査察を行う代わりにイランに対する経済制裁を全て停止するということです。ちなみに近衛文麿が幻のルーズベルト会談で求めようとしたものが、中国から撤兵する代わりに経済制裁をやめてもらうことでした。

そして、イラン系の人が書いているのを読む限り、もしアメリカからそのような提案があればイランの首脳たちは受け入れるだろうと予想しています。

ところが、オバマ政権は経済制裁の部分的な停止ぐらいしか考えていないようなのです。なぜだか私にはわかりませんが、オバマ大統領はイランに対して核問題の解決だけでなく、レジーム・チェンジ(体制転覆)を考えているからかもしれません。

いずれにせよこのままでは戦争は避けられないでしょう。

戦争になれば最終的にアメリカが勝ちイランは負けるでしょうが、日本の敗戦がアメリカに対して次から次にアジアにおいて危機をもたらしたように、中東でも同様な問題を発生させるでしょう。

このように近衛文麿が第一次世界大戦終了時に書いたことや総理時代にルーズベルト大統領に求めたことは、2013年現在でも全く色褪せていないのです。

以上。